2021年7月15日2 分

幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  山田千里(やまだ ちさと、Yamada Chisato)

山田千里(1)

山田千里(やまだ・ちさと)は1931年(昭和6年)、豪雪地帯である白神山地の麓、西津軽郡赤石村(現在の鯵ヶ沢町)に生まれる。満州事変の年である。

父の儀助は集落に広大な土地を持つ豪農であった。猟師として働くかたわら、蓄音器で民謡のレコードを聴き、趣味で三味線を弾いていた。子供の頃の千里は、父の三味線を持ちだして遊んでいたという。

戦後になって中学校卒業を翌年に控えた1946年(昭和21年)の春、千里は三味線弾きになりたいと父に打ち明けるが、「遊び人のかまどけしになるなら勘当だ」と叱りとばされ取り合ってもらえない。「かまどけし」とは、かまどの火を消してしまう者、すなわち「破産者」を意味する津軽弁である。儀助は常々、大工か桶屋の弟子になれと千里に言い聞かせていたのだった。

だが、転機はすぐに訪れる。

この年の7月、家から約8キロのところにある千聖が通っていた南金沢小学校に福士政勝(ふくし・まさかつ)一座が巡業にやって来たのである。

父には内緒で8キロの山道を向かった千里は一座の唄会に聴き惚れ、終演後に楽屋付近に寄っていくと、そこにいた一人の男から「一緒に行かないか」と声をかけられる。男が何者なのかはわからなかったが、その男の一言を受け、千里は山道を駆け出しいったん家に戻って父の三味線を持ち出し、すぐに10キロ先にある福士一座の巡業先の明石劇場に向かって三味線を担いで走り出した。

一座は政勝の妻の成田雲竹女(なりた・うんちくじょ)を看板とする7人所帯。この日の夜の公演から千里は幕引きや使い走りなど一座の仕事を手伝い始める。

こうして千里は、家出同然のかっこうで福士政勝の弟子として一座に入団してしまうのだった。

山田千里(2)につづく。

【参考文献】

・松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)

・大條和雄『津軽三味線の誕生 民俗芸能の生成と隆盛』(新曜社、1995年刊)

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