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津軽三味線Wiki

3. 津軽民謡について

青森県 位置と行政区分と沿革 本県は本州の北端に位置し、津軽海峡を隔てて北海道(藩政時代には蝦夷地または松前と呼ばれた)に対し、東は太平洋、西は日本海、南は秋田岩手両県に接している。陸奥の国に属する弘前(明治23年市制)青森(同31年市制)八戸(昭和4年市制)の三市と東西南北中の五つの津軽郡、上下二つの北郡および三戸郡三市八郡を管轄し、県庁を青森市に置く。総面積は約9600平方キロで奥羽六県中第四位の大きさである。現在の青森県を陸奥国(岩手県二戸郡もこれに含む)と呼んだのは明治元年12月7日以降のことで、それまでは今の福島、宮城、岩手、青森を総括して陸奥と呼んでいたので長い間、蝦夷またはえみしと呼ばれ、かつその後裔で皇化に浴して俘虜と称せられた異民族が長い間勢力を奮っていた地方で、ことにその最奥地である現在の青森県下のごときは鎌倉時代に至って安倍貞任の後と称する安東氏が津軽地方に勢力をほしいままにするまでの歴史はほとんどわかっていない。平安朝の初め延暦年間(1442―53)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけ北郡や津軽の端までも討伐の手を差し伸べたという伝説のごときも要するに浮説にすぎず、その際は今の岩手県まででそれ以北にはおよび得なかったということである。のちに源頼朝が文治5年(1849)俘虜長として数代の栄華を誇った藤原泰衡の一族を滅ぼした時に、これにしたがって大功をたてた甲斐国南部庄の地頭職南部三郎光行(―1875)が頼朝から糠部、九戸、閉伊、鹿角、津軽の五郡を賜り三戸に城を築いて統治することになったのが南部氏の起こりであるが、子孫相継いで明治維新に及んだ。 なおこの光行には六男があり、長子行朝は妾腹の出であったので一戸に分家し、次子の実光が二代の家督を継ぎ、三子実長は八戸に分家、四子宗朝は四戸へ五子 行連は九戸、六子朝清は七戸へそれぞれ分家した。ただしこれらの支藩にも後代に及んで消長があり、八戸家四代の師行(―1998)は勤皇の志厚く、八代の政光に至る間南朝のために傾倒するところが多かった。後二十二代の直義の代になって寛永4年(2287)閉伊郡遠野へ一万二千石で移され、八戸へは後に本家二十七代利直の七子直房が寛文4年(2324)から分封され、この子孫が八戸藩として明治に及んだ。現在遠野地方に残っている「田植踊」その他の芸能が非常に八戸地方のものと共通しているのは藩主の移住に伴って領民の交替が行われたためかもしれない。また七戸藩は藩祖の朝清が封じられて以来の系譜はつまびらかではないが、本家二十九代重信の次子政信が元禄7年(2354)に父から新田5千石を分知され、さらに支藩五代の信邦の世になってさらに6千石を加増城主格となったところを見ると、それまでは中絶していたのかもしれない。この子孫が相継いで七戸藩として明治に及んだ。また明治維新の大政奉還の勅命に抗して破れた会津の松平氏が同3年に下北半島の田名部に国替えされて斗南藩と称してわずかに余命を繋いだのがいずれも同4年7月に八戸県、七戸県、斗南県となり、同年9月には弘前県に合併され、さらに県庁が青森に移るに及んで青森県と改められたのである。また平安朝末期から足利時代へかけて津軽に雄飛した安東氏の祖は安倍貞任の一子高星で、父貞任が源頼義に討たれた時には幼くして乳母に抱かれて津軽に逃れたが、のちに長して藤崎城(今の南津軽郡藤崎村)により安東を姓として大いに威を振るい、その一族秀栄の代になって嘉應文治(1829―46)の頃には十三港に福島城を築いて津軽六郡を領した。現在この十三湖の周辺にある北津軽郡相内村に行われている盆踊りの「ナオハイ節」(44ページ)のごときはすこぶる古調わすべきものがあって安東氏時代のものではないかと考えられる。 この安東氏は常時蝦夷地をも合わせて上国(今の江差地方)下国(今の松前地方)を支配していたが高星の八代の孫盛梨の代になって、南部14代の義政の攻略に会い、嘉吉3年(2103)津軽を追われて蝦夷地に亡命するに至った。しかし、其の後蝦夷地でも属臣の武田信広が勢力を得たため、一族合同して出羽の秋田に逃れ秋田姓を名乗るに至った。現在津軽地方にはなく岩手県の南部領だけに残っている「御祝」(116、120ページ)の歌詞「ゆるゆるとお控えめされ十三から船の着くまで」とか「松前は名勝どこ、諸国の船はみな着く」というような歌詞が今まで継承されるのは、この歌の発生経路を物語るものというべきで、安東氏が津軽、蝦夷地領有時代の栄華の痕跡と見ることができる。かくして津軽は南部氏の有に帰して数代を経る中に23代安信の天文年間(2192―)以来これに従わぬ者が出てきたので舎弟高信を石川の大仏城(今の南津軽郡石川村)に置いて統治せしめている中、その配下に属していた大浦為信が元亀2年(2231)5月決然立って高信を殺してこれを奪い、姓を津軽と改めてこの地方一帯を横領するとともに、南部勢力の反抗を退け、さらに一方には常時中央にあって天下統一の偉業を着々と進めていた豊臣秀吉に通じ、天正18年北条征伐のため小田原へ出陣中の秀吉に謁見して津軽領安堵の保証を得るなど外交的手腕を用いて南部氏の先手を打ったため、さすがの南部氏もいかんともすること能わず、泣き寝入りとなった。かくして津軽氏は二代信牧の慶長16年(2271)に弘前に築城して移り、明暦2年(2316)には信牧の次子信英を黒石に分知して支藩たらしめた。そして子孫継承して明治に至り、廃藩置県に際して弘前、黒石ともに一旦県となったが、さらに南部の七戸、八戸県などとともに青森県に合併された。



​地理と風土的特徴 まずその一般的な輪郭としては、東に下北、西に津軽の両半島が陸奥湾を抱いて凸字形をなし、その東西北の三方を囲む海岸線の延長700キロに及び、本土の背骨をなす奥羽山脈が中央を南北に縦断し、其の上に那須火山系に属する八甲田群(最高1550メートル)や恐山(700メートル)が噴出し、また西部には鳥海火山系に属する岩木山(1625メートル)が聳え、その秀麗なる山容は津軽富士の名に呼ばれるにふさわしい。河川と平野は西部秋田との県境矢立峠に発源して北上し十三潟に注ぐ岩木川(流程90キロ)は必ずしも大河とはいえないが、その流域に展開する1000平方キロの沃野はいわゆる津軽米の産地となり、これに対して東方には岩手県九戸郡に発して北流し八戸付近で海に入る馬淵川や、十和田湖から東流する奥入瀬川などの流域には950平方キロの隆起海岸平野が存在するが、中には小川原沼のような非隆起の開拓の進まない沼沢地も残されている。また中央部には青森市を中心とする駒込、荒川の両河に沿った170平方キロの青森平野があり、農耕が拓けてはいるが奥羽山脈に近くにしたがって乾燥した洪積層の大波状原が展開して牧養地として利用されている。 ​ 気温は一年を通しての平均9度で、1月が最も寒く、8月が暑く、快晴30日、降水217日、酷暑の頃でも朝夕は常に冷気を覚え残暑と余寒はむしろ激しい方で積雪も丈余に達して往々軒先きを没することがある。また東海岸を流れる親潮(寒流)が時として寒冷の北東風を送って農作物を害する。この風は吹き出すと長くなるので、三厩あたりでもヤマセ7日吹かねば止まらぬという俗諺がある。この西の津軽方面では冬季になると日本海を隔ててシベリア大陸に発生する高気圧の影響で西の季節風が吹き漁業に難を与える。したがってこの自然的制約は住民の生業にも影響を与えないはずはなく、東方の南部三戸と西方の津軽五郡とはおおよそ同等の面積ながら、農業戸数は南部が4割、津軽が6割に対して、漁業戸数は南部の6割5分に対して津軽が3割5分の比率を持つ。なおこの南部と津軽住民との対立はその気風の上にも現れ、津軽人は進取的であるが、一面軽佻浮薄で移り気なところがあり、また南部人は保守的で鈍重であるが、律儀なところがあるという。この相違は平生好んで歌う歌の節にも現れ、津軽人が「よされ」「じょんがら」「小原」のような派手な歌を喜び、それも次々と新手の新しい節回しを工夫して変化せしめているが、南部人は「ナニヤトヤラ」のような正鵠のわからない歌をそのまま古格を守って飽きもせず今日まで歌い続けているのである。



​交通路の今昔とその変遷 藩政時代にあっては今の奥羽6県が総括して奥州、出羽と呼ばれた中でも青森県は一番北の果ての僻遠の地であっただけに道路なども開けず、陸上交通は不便であったらしい。徳川幕府が交通政策上の重要施設たる5街道の中の奥州道中は江戸千住から今の北津軽郡の北端三厩に至るとしてあるが文化8年に道中掛から勘定方へ提出した書状には千住から今の福島県の白河までとしてある(経済学大辞典)。いずれにせよこの道路は奥羽各地の大名の参勤交代が主なる利用目的になっていたのだから、白河以北は幕府の管轄外にあったのかもしれない。しこうして八戸、七戸藩はその宗藩の居城たる盛岡を経由してこの奥州道中を上下したのであり、津軽、黒石藩に矢立峠から国超えをして秋田の佐竹領を通過出羽路を上下した。また蝦夷地の松前氏も津軽領三厩に上陸してから青森まで奥州道中をさらに弘前に出て出羽を経由して江戸に入った。すなわち現在の鉄道経路でいえば南部藩は東北本線を、津軽、松前藩は奥羽本線に沿って往来したことになるのである。なお明治7年に刊行された「日本地誌提要」に掲げてある道路は徳川時代中期から明治までの主要道路を示したものにして興味深いが、それによるといわゆる奥羽道中に属するものとしては 三戸―浅水―五戸―尊法寺―藤島―三本木―七戸―野辺地―小湊―野内―青森 となっていて、藩政時代には野辺地止まりで南部藩唯一の西回り航路の発着地である野辺地と城下盛岡とを結ぶ重要道路であったに相違ないが、明治24年に鉄道東北本線が青森まで敷設された時には三戸から野辺地までの間は、この道路によらないで東方を迂回した。また野辺地からは佐井道が分岐し 野辺地―有戸―横浜―中丿沢―田名部―関根―大畑―下風呂―易国間―大間―奥戸―佐井 とこれから海路函館へ渡るのである。この道路に沿っても鉄道大湊線が大正10年に大湊までで、さらに昭和15年田名部から大畑まで大畑線が敷設された。また田名部から佐井へ行くには西回りの別道もあって 田名部―大湊―城沢―川内―檜川―宿野部―蛸崎―小沢―脇ノ沢―九艘泊―牛滝―福浦―長後―佐井 で佐井から函館までは海路直径12里8町で青森、函館の現航路よりは16里10町も近いので藩政時代における南部方面の渡道者はみなこれによったが、明治以降青森に鉄道が開けて青函経路の起点となるに及んでその繁栄を奪われてしまった。また三戸から八戸へ行くには 三戸―劔吉―苫米地―櫛引―八戸 の道路があり三戸からさらに西へ分岐する花輪路は 三戸―田子―関―大湯―毛馬内 に道路が通じ関と大湯間の莱満峠には関所が置かれていた。鹿角方面の鉱業地ではこの街道によって魚類の供給を八戸から仰いだが、これにしたがって酌婦の売買なども密かに行われ番所役人に賄賂を使って、この地方では魚の方言をダボというところから女の乗り物をダボと称して関所を通過せしめていたので酌婦のことをダボと称するようになったという。「莱満節」(284ページ)と称して鹿角地方一帯に歌われた「甚句」はこの八戸女がもたらしたものなのである。なお八戸から海岸沿いに北上して田名部に至る道路もあるがこれは略し、津軽方面では佐竹領(秋田県)の白澤から北上する羽州街道(これは明治になって名付けられた)として 白澤―碇ヶ関―石川―弘前―藤崎―浪岡―新城―青森および弘前から鯵ヶ沢に至る 弘前―高杉―十腰内―浮田―鯵ヶ沢 および青森から三厩に至る松前街道(奥州道中の一部) 青森―油川―蓮田―蟹田―野田―片館―今別―三厩 の三道路は津軽藩が御城下弘前と所領内とを結ぶ重要道路であった。 ​ すなわち弘前を中心として北は青森港に南は矢立峠を越えて秋田佐竹領に入る道路は現在奥羽本線(明治37年開通)が縦走しており、弘前、鯵ヶ沢間はこの道路とは離れて五所川原、木造を迂回し、鯵ヶ沢からさらに海岸線を延びて深浦を経由、出羽の能代に連結する五能線(昭和11年全通)が設けられ、また弘前と黒石支藩との間にも大正元年以降黒石線が通じている。そして現在では東の東北本線(主として東京方面)と西の奥羽本線(主として関西方面)の二大鉄道幹線が東京、京阪地と奥羽、北海道を結ぶ交通要路となっているが、藩政時代にはこれと反対に海上における西回り東回り航路(243ページ)がこの役を務めていたのだ。津軽地方には蝦夷地や北陸方面との交通のためにすでに安東氏の時代から十三潟、小泊、三厩などの諸港が開けていたが、津軽氏の所領に帰してからは二代信牧の寛永2年(2338)には鯵ヶ沢港を開いて前者は東回り、後者を西回り起点とするほかに深浦および油川を加え藩の七要港とした。 また南部藩において国外から京、大阪方面への移出物資は古くは鹿角領から米代川を船で出羽の能代へ送り、ここから西回り船に積んだが、野辺地港を開いてからはここを西回り航路の起点とした。また江戸への物資輸送は仙台城主伊達政宗が元和年間に東回り航路を開いてから後、八戸支藩では寛文7年(2327)以来鮫港から米や大豆を随時江戸へ送り出したということである。なお南部領の三戸、北郡所在の湊の至浦で正保2年の地図に記載されているのは鮫(三戸)泊、野辺地、横浜(以上上北郡)大畑、大間、奥戸、大平、九艘泊(以上下北郡)などで、その中でも佐井は函館への直接連絡港として藩政時代には商家、妓楼が軒を並べすこぶる繁盛していたという。「奥南盛風記」によると元禄11年8月19日暴風があって多くの難破船、死傷者を出したが、その被害船の中に佐久島船(三河幡豆郡)、三河船、仙台船、江戸船、尾張船、伊勢船、越前船、津軽船、能登船、兵庫船、宮古船(陸中下閉伊郡)などの名があげられているのを見てもいかに多くの諸国の船が集散していたかがわかって面白い。こうして海を通じての港の船の往来、物と人との出入りに対してまず求められたのは酒と女と歌とであったろう。酒田節、アイヤ節、二カタ節、三下り、じんく、護良節、広大寺などいつの時代からの俗謡、はやり歌が錯綜交流して行われている中に、ある者はその土地独特の節回しに変化、改良されてその土地の歌として継承されるに至ったのである。特に「アイヤ節」(30、31ページ)のごときは津軽、南部南地方に共通して歌われている中にいつしかその節回しに差異を生じて、その楽譜に見られるような変化をきたした。この歌などは津軽人と南部人との音感覚の上の趣味性の相違がよく現れている例として誠に興味ある資料たるを失わない。



生風景と作業歌との関係 現青森県の産業は藩政時代から米と林業と牧畜とがその最たるものであったが現在においてもこの伝統は保持されており、農業が最大主要産業で県経済の半分以上これによって賄われているといってよい。米は地勢、地味の関係もあって津軽地が南部地に比して約3倍強の収穫がある。しかしこの津軽平野1000平方キロの沃地も自然に放置されたままに存在しているのではなく、津軽家代々の開墾の苦心の賜物なのである。津軽氏は元祖為信の創業のあとをうけて2代信牧が植林、開墾に手を染めたが、4代信政に至って貞享年間(2344―)岩木川の改修と築堤工事と新田開発、および日本海方面から吹き寄せる季節風の暴威を防ぐための植林事業などの施行によって興毅した村が二百数十ヶ村、米の増収が二百数十ヶ村に及んだという。この頃西津軽方面の新田開墾のため秋田方面からの出稼ぎ人に歌われたものが「秋田節」(35ページ)すなわち今の津軽音頭であったという。なおこの信政の時代はいわゆる元禄の経済的変調の時代で、信政の殖産興業の努力にかかわらず藩の財政は次第に窮迫し7代信寧の代には凶作相次いで起こりついに破綻に瀕するに至ったので分限者からの用金徴発、家中牛和制、貸し借り無差別の徳政を断行してようやく危機を脱することができたものの、この非常時家督を受け継いだのが8代信明で自ら勤励力行を垂範、廃田の復興備荒貯蓄制度の確立に邁進したが惜しむべし年齢わずか30歳で病没したものの津軽家中興の祖として後世松平楽翁、上杉鷹山とともに東北の三大名君と称された。この信明の志を受けたのが黒石支藩から入家した9代寧親で、最も新田開墾に意を注ぎ、享和から文政に至る約30年間に立村28、新田加増38000石を収めた。津軽藩の当初の知行は45000石であったが文化2年に70000石に加増、さらに同5年に10万石に昇進したのであるが、その実収は四、五十万に達していたと推定された。これが明治時代に引き継がれてから金納制度になったため農家において収量多きを望んだ結果、品質が一時下落したがその後改善されて今日に至っている。この津軽米に対して三戸、上北郡方面の産米は品質もこれに劣っており、この方面ではむしろ粟、稗、蕎麦などの雑穀の栽培が多い。「田植え歌」はかつては津軽地方には各地に歌われたものらしく「里謡集」には中津軽郡の歌詞の採集があるが現在ではその曲節は絶えていずれの地にも聞くことができないが、西津軽郡の木造地方で明治の中期頃に歌われたものは幸い同地出身の館山甲午氏の記憶にあったので本書に収録することができた(11ページ)。 ​ 歌詞もなかなか変わっていて面白い。南部領方面には作業としての田植え唄はなく、田植え踊り系統の門付き歌が残っている。「田の草取り」の歌は津軽方面では「ホーハイ節」(13ページ)を用いたらしいが、この歌は盆踊り歌としてもまた稲刈り歌にも運用されたらしく「里謡集」には東津軽郡の稲刈り歌として「婆の腰やほはいほはい」云々と記してある。なおこの歌のヨーデル式唱法はアイヌのエフンケイと一脈通ずるものがあって研究の価値がある。また三戸郡方面の「田の草取り歌」(12ページ)は主として粟や稗の場合に用いられたらしく同地方の郷土歌ともいうべき「ナニヤトヤラ」の最も典型的な形態の変化である。臼歌(14−15ページ)は南部領の方には籾摺、粉挽などに歌われ、現在でもその曲節は残っているが津軽方面では歌われた形跡がないのはむしろ不思議である。蕎麦は地勢および気候の関係で南部地方に少量の栽培があるのみ、大豆は現在ではそう生産の多い方ではないが品質の良好をもって知られ、藩政時代には南部から大阪、江戸方面へ出荷している。リンゴは日本一で全国総生産額の半ば以上を占めているが歴史は新しく、明治7年にアメリカから種木を持ってきて植えたのが初めというからしたがってみかんや柿における「もぎ歌」「えり歌」といったようなものはない。次に農産工業品としては津軽藩では4代信政の代に桑、漆、椿、柿、茶、紅花、麻、芋、藍、薬草に至るまで栽培を計ったが風土の関係で必ずしも成功しなかったが、漆の栽培は絶えず行われた結果として津軽塗りのような名物漆器が現れた。また養蚕製織の術は信政が京都から招聘した野元道玄によって割策されて国内需要に応ずる価値をあげたが、以上の諸種家内工業における作業歌が歌われたかどうか今は少しもわかっていない。次は林業であるが、これは津軽、南部両藩ともに力を尽くした。すなわち津軽家では2代信牧の慶長寛永(2256―2303)頃から植林に手を染め4代信政の代には一層林政を整備し杉、檜、柏、栗などの増殖を計り、また南部藩でも森林保護と植樹奨励には意を用いたので山岳の重畳する津軽の東北南の三郡や下北郡は鬱蒼たる森林に囲まれている。この林業と平行して牧畜も古い歴史を持ち、ことに産馬は南部藩において三本木原を中心とした上北、三戸が古来から有名な南部馬の産地で、馬匹の改良とその保護、奨励とは藩祖光行が建久年間に入国以来の伝統的政策であった。 ​ ​また津軽でも2代信牧の時代に津軽坂、雲谷、入内、滝沢、枯木平の五ヶ所に牧場を開き、弘前には馬市を開いて他領民との売買交換を許したが、この精神は今日にも引き継がれ、奥羽における随一の馬産地として自他共に許されている。また水産は陸奥湾には鱈、ナマコ、帆立貝、また鰰は日本海方面から津軽海峡を経て太平洋方面一帯に漁獲され産額の最も大きいものでこれに次いではイカで、これには一番スルメ、二番スルメ、水イカなどの種類があり、漁場は下北郡が最も多く、東北津軽郡がこれに次ぐ。マスやカツオは太平洋岸の上北、三戸郡方面が本場である。津軽領方面には漁労に関する仕事歌というものは何も伝わっていないが、奥南下北郡の尻屋岬付近のイカ船の漁師の歌う「沖節」というものは宮城県の「遠島甚句」のくづれであるのも面白く、この沖節が遠島甚句系艪漕ぎ歌の北限界をなしているわけである。また八戸付近では明治になってから俗謡の「よいよなか節」と津軽の「よされ節」をもじって「大漁歌」(28―9ページ)として歌ったことがある。



​社寺芸能と囃子と踊り唄 この社寺に関係した芸能や盆踊りのようなものは津軽と南部とは全く分布を異にしている。たとえば「山伏神楽」のような楽舞は津軽地方には全然行われていなかった。本田安次氏の研究によると青森県でこの「山伏神楽」(この地方では権現または獅子舞という)の残っているのは八戸市内の小中野と三戸郡中澤村字中野、同郡田子町、上北郡横浜村字檜木、同吹越、下北郡東通村字目名、同白糟に分布しているとのことで、同氏はこれを地域的に分類して、「九戸風」と命名している。本書には三戸郡上長苗代村に伝承されている「権現舞」を収録した。この楽舞は現在では同村の松本嘉太郎翁(72)を中心として矢澤、大佛、笹野沢各所の有志によって組織され、郷社櫛引八幡の5月15日の例祭に奉仕しているという(66―7ページ参照)。この権現舞は付近の小中野や中野、田子のものや北郡方面のそれと伝承の経路がどんな関係にあるのか不明だが以前は修験者たちの管掌に属し、毎年霜月頃になるとこの種の修験者が組組に分かれて権現の獅子頭を奉仕して火伏せや悪魔払の祈祷に村々を周り、これを「まわり神楽」「通り神楽」または「門打ち」と称し、その泊まり泊まりの民家の一室を舞斎にあてて幕を張り注蓮をめぐらし、大勢の村人を見物人として一晩に12幕くらいの舞曲を演じ、その翌日宿を立つ時には「神送り」と称して家中の人々を集めて特に入念な祈祷を行い、新築の家には柱がらみの祈祷を、また仏の年忌に招ぜられては墓獅子を舞った。これらの宿は定宿になっているところもあるが、村によっては輪番になるところがあり、あるいは講を結び、講がこれを指定する。要するに山伏としては祈祷をして歩くのが根本目的ではあるが、余興的にこれらの舞曲を演ずることによって一層村人の歓心を買う方便たらしめたわけで、今日のようにラジオ、蓄音機、映画というような何一つの娯楽を持たない農村において、特に冬の訪れの早い奥羽地方では老いも若きもいかにしてこの権現様の訪れを楽しみにして首を長くして待っていたかは想像に難くないのである。 ​ ​これに対して津軽地方に行われたのは関東系の「獅子舞」(59、60ページ)で、これ以外の山伏神楽系統の獅子舞は例えば隣国の秋田領山本郡方面には「番楽」という名で各地に行われているのに対して津軽領では全然行われた形跡さえないのは不思議である。また南部、伊達、最上領地方では盛んであった初春の農耕行事としての「田植え踊り」は「えんぶり」(61−5ページ)という名で八戸市を中心とした三戸郡地方で今なお盛んに行われているが津軽地方には残っていない。もっともこれは菅江真澄翁の「一曲」には津刈の田歌として歌詞の採集があるから以前には行われたこともあったらしい。鹿踊りも現在では南部津軽両地に絶えているが前記「一曲」には津軽の鹿踊りとして歌詞が記載されている。また現在の岩手県地方で盛んな「剣舞」は三戸郡階上村地方に「鶏舞」(72−3ページ)と記されて残っているのが唯一のものらしい。また「駒踊り」は現在ではこの青森県と岩手県の南部領と秋田県の鹿角山本郡方面にしか行われていないが元来は神社遷宮などの祭事に神輿に扁従した練り芸式のものが独立した芸能として行われるに至ったもので、本書提出の上北郡藤阪村(68―71ページ)のもその一つである。盆踊り歌はそのすこぶる古風なものを伝承しているのとかつ種類の多い点では全国でも有数である。まずその古いのと珍しい点では南部領の「なにやとやら」(53−5、127ページ)と津軽領の「ナオハイ節」(44ページ)とであろう。「なにやとやら」の発生については種々の説があるがいずれも信を置き難いがとにかく非常に古い時代からの伝承であることだけは確かで、それも初めは盆踊りの歌だけではなく、祝典祭儀、仕事とあらゆる場合に歌われていたと思われる。また「ナオハイ節」は津軽氏よりはさらに一時代前の安東氏時代からの伝承らしく、おそらくは北条足利時代の宗教的歌謡から変化したものと考えられる。この歌が現在歌われているのは北郡の相内村であるが昔安東氏の居城であった福島城に近いところで、常時の開港であった西郡の十三には別に「十三の砂山」(45−7ページ)という盆踊り歌が伝えられているが、この方は「ナオハイ節」のような古い時代のものではないが江戸時代になってから出羽の酒田から移入してきた舟歌の「酒田節」の変化したもので、なおこの歌は南部方面へも入って三戸郡階上村の「えんぶり」の踊りの中に「酒田」(62ページ)として組み入れられている。また津軽一帯に盆踊り歌としても田植え唄としても歌われた「ホーハイ節」(13ページ)も極めて珍しい特色のある歌でその発声方法はアイヌ人の歌うエフンケイによく似ている。


さらにまた越後方面から船で運ばれてきたという鯵ヶ沢地方の「甚句」(52ページ)は木造、五所川原方面にまで歌われ、同地方の人々は従来行われていた「ホーハイ節」よりは品がよいとして喜んだということであるが、この歌は徳川氏の元禄年代に播磨地方を中心に大いに行われた「兵庫くどき」「海老屋甚九郎節」の亜流で現在でも西日本方面の盆踊りクドキといえばほとんどこの系統に属するが、奥羽地方では「兵庫くどき」系統の歌としてはこの「鯵ヶ沢甚句」だけなのも珍しく、そのほかのクドキといえばいずれも越後の「新保広大寺」くずしのクドキのみである。なおこのほかの盆踊り歌としては津軽方面に「奴踊り」「どだらば」(以上48ページ)「黒石よされ」(49ページ)南部方面では「ナニヤトヤラ」の分派と思われる「おしまこ」(56ページ)「十二足踊り」「鴨落ちた」(58ページ)「ナンヨ節」(57ページ)がある。



奥羽民謡歌詞考

民謡の曲節が時代とともに変わっていくように歌詞も次から次へと新しいものが作られ古いものが忘れられていく。現在奥羽地方で歌われつつある歌の歌詞はいつ頃からのものであるか、もちろん的確にはわからないが、この地方には今から百五十年ほど前に菅江真澄という危篤な文人が庄内、秋田、津軽、南部、松前までも遍歴して「一曲」という貴重な採集記録を残して置いてくれたので、これを現行のものと比較してみるとなかなか面白い事実が発見される。まず第一に気づくことは現在「田植え踊り」が残っているのは福島、宮城、岩手、山形の4県に、青森県には八戸、七戸地方以外には影も形もなくなっているが「一曲」によると外南部(北部)や津軽、秋田地方にもあったことが知られ、また「鹿踊り」は現在は宮城、岩手の2県だけで、福島、山形、秋田、津軽には関東系の三斤ささら獅子また山形村山地方には両者の混合したものが存在するが、津軽、秋田にも「鹿踊り」が行われていたらしい。津軽、南部の十五七節(山歌)は今もその頃もだいたい同じであることも懐かしい。次に久保田(秋田)の「田植え踊り」の歌詞に「それはめでたやござ見れば、黄金、銚子、七銚子、お祝いがしげければ、お壺の松がそよめく」とあって岩手県地方の「お祝い」との連絡が考えられるが、秋田氏の祖はかつての津軽の雄安東氏で、その伝統を残しているのかもしれない(212ページ参照)。またもう一つの歌詞「苗の中の鶯、何と何とさえずる、ゼニ蔵、かね蔵、こがね蔵、秋田繁盛とさえずる」というのは現福島県の「田植え唄」(431ページ)「大蔵さまから斗酒を添えて俵つめ」と大同小異である。


特に珍しいのは南部斯波稗貫和賀(現岩手県)の米踏歌で、それによると早朝、朝飯後、昼飯後、晩及暮と、それぞれ歌う歌詞が違っていることで、この事実は作業の歌が単なる労働の統一と慰労のため許りでなく、神にその仕事の助力加護を祈願して勧奨し、その神徳を讃える信仰心の発露と解され、今日までは中国地方の「田植え唄」や「たたら歌」九州地方の「木下し歌」にその類例が見られていたが、関東地方の土橋の「木遣歌」(関東編272ページ参照)や、この「一曲」記載の臼歌の歌詞存在によって、ほかのあらゆる作業の歌も、その発生当時には時刻による歌詞の選択というタブーが守られていたという想像がつく。なおこの臼歌の昼飯後に歌われる歌詞の「目を見れば八つに下る、麦を見ればから麦、刈ると麦を七日まいて、お手に豆が九つ、九つの豆を見れば、もたぬつまのこよしさ」と現に稗貫郡で歌われている「始めて唐白(91ページ)」と比較してみると面白い。また津軽に鉱山の金掘り歌や凧揚げ歌のあったこともわかるが、今はなく、低俗な「じょんがら」「よされ」一色に塗りつぶされている。南部領鹿角地方の「大の坂」もほとんど忘れられていたが、最近その断片が発見された(263ページ参照)。しかもこれと同じ歌詞のものが閉伊郡の宮古地方に7月踊りとして存在していたことも昔話となった。なおほかにもその片鱗を残したものは相当に存在している。



子守唄(その一)陸奥国弘前市

その一は主として弘前付近で歌われている節で南津軽郡富木村出身の篠崎正氏に演唱をこうて採譜したもの、その二と三は青森県立師範学校付属小学校唱歌研究室で採譜されたもので青森市近傍のものである。その一と三は元来は同じものであろうが地域によってこの程度の相違はある。


代掻歌(その一)陸奥国八戸市

南部領に属する三戸郡地方の代掻歌で、この辺の農家では多く馬を使用する。その方法は挿絵のように馬の顎のところへサイセンと称する長さ6尺くらいの棒を取り付け一人(これをサイ取りという)は馬の尻についていて巧みに馬鋤を操縦していく。すなわち馬鋤取りが主人ならサイ取りには女房が当たり、掛け合いに歌を歌いながら仲良く仕事を進めていくのである。しかし現在では全く歌われない。

その一は八戸市の上野翁桃氏、その二は三戸郡下長苗代村の在家たねさんの演唱で昭和15年8月20日八戸市での採集。

町田烹章、藤井清水。


田植え唄(その一)陸奥国西津軽郡木造町

津軽地方の田植え唄は現在では全く滅びて採集できなかったが、本書に収録したその一は明治の作曲家館山漸ノ進翁の嗣子で明治21年に西津軽郡木造町で生まれた甲午氏が少年時代に同地方の農民が歌っていたのを記憶していて採譜されたものである。なおまた「里謡集拾遣」には中津軽郡のものが記載されているが詞型から判定するとこれとは別のもらしい。その二の方は実際の作業に歌われたものではなく三戸郡の北川村、名久井村で毎年正月16日に村娘が五人くらいそれに中老の女も加わって一団となり田植え踊りをして各戸を回り合力を受ける風習があり、その時の歌であるが、明治の末期に路上取り締まりによって警察から禁止されて以来行われなくなり、歌だけが残ったものである。これは昭和15年8月20日八戸市で下長苗代村の在家たね氏の演唱を録音採譜したものである。

町田嘉章、藤井清水

その一の詞型は五七五、七五、七五という変わったもの、その二は普通の七七七五で岩手県方面の「田植え踊り」の歌詞と共通している。


南部領八戸地方で稲田、稗田または粟畑の草取りに歌われたものであるが、これはこの地方に古くから歌われていた「ナニヤトヤラ」の変化したものである。元来「ナニヤトヤラ」の字音数は五七七調が元で、後に本曲のような七七七五調のものが作られ、また曲態も羽音終止という珍しい旋律型から徴、宮、商音に終止するものが派生していったので、したがって七七七五調の歌では徴音終止のものが多いのにこの「草取り歌」だけは古態のままの羽音終止である点が珍しい。なおこれについては「ナニヤトヤラ」(53―5ページ)の条を参照されたい。

上長苗代村の小笠原すえさんの演唱。


ホーハイ節 陸奥国青森市

もし日本民謡曲中での特異番付を作るとすれば、まず東の横綱として扱うべきものはこの津軽の「ホーハイ節」であり、西の横綱は南部の「ナニヤトヤラ」で、しかもこの二つの歌が青森県の東西両端に相対峙しているのも面白い取り合わせというべきである。しからばこのホーハイ節がいかなる点で特異であるかというに、まずその歌詞においてホーハイというはやし詞とも呼びかけ声とも呪文とも解釈のつかない挿入句があり、しかもその唱法がほかの日本民謡にはあまり類例のない「裏声」ヨーデルを使用する点で、それは吸息と吐息とを交互に利用するのであるが、この種の唱法は筆者が昭和15年8月下旬の第二次奥羽民謡採集旅行に際して、秋田県鹿角郡毛馬内町(南部領)で発見した「土橋歌」(228ページ)がやはりホーフエーホーフエーと裏声を使用する点から考及して同郡宮川村字湯瀬地方の「湯瀬村コ」がやはりこの系統の歌であることを知ったので、往古には相当広い範囲に行われていたであろうことが想察されたのである。ただこれについて「津軽口碑集」に記載されてあるようにアイヌ歌謡を真似たものである、という説については、柳田國男先生や折口信夫博士は容認されておられないし、アイヌの歌謡についてなんら研究のない筆者においては、なおのこといかにも解釈の下しようがなく、頰かぶりですますよりほかはないのであるが、ただ音楽上の立場から、裏声式発声法の歌は以上あげた二つの曲以外には今日まで我等の手には日本民謡中に発見されていないということ、またかかる発声法の歌はアイヌの歌謡に多い、ということだけを記して、これを後代の研究者の研究の手に委ねたいと思うのである。なおこのホーハイという字音については大藤時彦氏が「民間伝承」8の11(昭和18年3月発行)にホーハイもしくはこれに似たホーホー、ホイホイ、オイオイ、ヒョウヒョウという一種の呪文的な叫び声が沖縄、石垣島、壱岐、五島そのほかの地方に存在することを発表されていることは面白く、津軽のホーハイもこの種の叫び声に端を発したものかもしれない。いずれにしてもこれらの唱法が津軽のホーハイ節のように吸息と吐息とを交えた裏声法発声法であるかどうかということが分かれば、その系統や分布状態もあるいは案外早く解決がつくのではないかと思うのである。なおこのホーハイ節の起源は天正の昔津軽藩主為信が、東津軽郡油川の郷士奥瀬善九郎の討伐に向かい、戦利あらず引き上げに際し、士気を鼓舞するために歌った(東北の民謡)と伝えられ、ホーハイの字音に対して「奉拝」「穂生」の文字をからめて説明しているが、もちろん牽強府会な俗説で、この歌はそんな上品ぶったものではなく、むしろ野生そのままの鳥の叫び声にも似た発声そのもので「田の草取り」や「盆踊り歌」として歌われた。またこの歌の詞型が八八字音で一連をなしている点もほかの奥羽民謡にない特例である。

青森市の成田雲竹氏が昭和の初年に吹き込んだ鶯印レコードS1006Aから採譜したが、現在ではこの歌はほとんど同氏の独壇場である。



三戸郡の臼歌

(イ)三戸地方に行われた臼歌を一括して示した。発生的順序からいえばその一の米挽き歌が一番古いらしい。米挽きは玄米を精白する作業だが、この地方では明治時代以前は白米を常食としていたのではなく、いわゆる食物としては稗、粟、蕎麦などが主であったから、玄米の精白作業は祭日などの晴れの場合に限られ、平素は稗や麦の脱穀作業として歌われ、縦臼もしくは横臼を用いて二、三人で挽いていたのである。イの歌詞の五五、七五調のものがその当時からの詞型であるが、その後酒屋の米挽き(これには地唐臼が多く用いられた)にも歌われるようになってロ以下の七七七五調の歌詞が新しく生じた。すなわちロの歌詞がイを模倣して作り替えたものであることは明白である。また曲節においても字音の不足分を縮めて歌っているが、かくして民謡の詞曲態が漸次成長変化していく姿が見られて面白い。その二の籾摺りはこの地方でいうスルシ挽きで摺臼(初めは木臼次いで土臼)で籾を挽いて玄米にする作業であるが、摺臼作業を歌った歌詞は一つも存在せず、米挽き歌の歌詞をそのまま流用している点から考えて米挽きよりはずっと後で歌われるようになったものらしい。この方は七七、七七調である、その三の粉挽き歌はすなわち石臼挽き作業で主として蕎麦粉を挽く時に歌われたから「蕎麦挽き歌」とも呼んでいる。この歌にも仕事そのものを歌った歌詞は存在せず「山歌」や「盆踊り歌」と共通しており、特に盆踊り式の反復がついている点などから考えて、ほかの歌を転用したものらしい。

(ロ)「米挽き」と「籾摺り」とは小笠原すえ氏「粉挽き」は在家たね氏の演唱で昭和15年8月20日の採集。



天保頃の八戸

舟遊亭扇横という江戸の落語家が天保の末年に奥羽を遍歴して書いた旅行記に「奥のしおり」というものがあるが、それによると天保13年の5月13日から27日まで八戸に滞在している。その記述の中の二、三を拾うと「八戸ことのほか魚類たくさんにて目の下一尺くらいの鯛150匁くらいにて、鮫などは一文に十くらいにて候」「港は城下より一里、遊女屋敷数多くあり。ここの遊女屋みな後家にてお家中または町家の富家の世話に相成り候、それより佐女(鮫)と申すところへ参り候、これにも遊女屋12軒あり候」「港は網を引き油を絞り申し候ところにて魚油御役所あり申し候、ここには芸者と申すはなき、遊女みなみな三味線をひき申し候、かまど返しと申す歌を歌い候、道中節のたぐいにて少し歌い申し候」「またまた港へ参り佐女へ参りこのたびは東回り船にてたびたび江戸へ参り候間、タバコ、茶など江戸より持参し、我らが弟子たびたび都々逸坊扇歌が作りたる都々逸、とっちりとん等の本あり、盛岡よりもかえって江戸近く御座候」などとある。かまど返し、道中節ともに滅びたが、八戸甚句(41ページ)や「白銀ころばし」(38ページ)などが生まれたのもこうした盛り場が背景をなしていたからである。



馬方三下り 陸奥国三戸郡北川村

(イ)青森県下で歌われる馬方節の総収で、これには実際馬方が道中で歌うもの酒の座敷などで三味線に合わせて歌ったり、あるいは椀を伏せて馬の蹄の音に擬して座興的に歌うものとの別がある。前者は「道中馬方節」とも、また単に「道中節」とも呼ばれ、後者は伴奏の三味線が三下り調であるところから、普通「馬方三下り」といわれる。この「馬方三下り」は南部領の八戸地方に歌われているものだが、津軽地方でもだいたい同じ骨組みで「津軽三下り」と称して歌われている。また「道中馬方節」は馬の取引売買をする馬喰商人たちが、馬を幾頭も引いて市から市へ旅をするとき、それは主に夜間を利用するが、馬の制御と眠気覚しに歌う場合(これを夜引き歌と称する地方もある)と荷物や旅人を運ぶ駄賃付きの馬方などにも歌われて、だいたい奥羽地方の「馬方節」は骨組みはみな同じの徴音終止形のもので細かい技巧は違うが、だいたいは信濃の追分馬子歌というより上州外北関東馬子歌の商音終止の旋律形(関東編76、115ページ、および北陸中央高地編参照)が変格調への宮音転位したものと解される。

(ロ)「道中馬方節」の南部の方は八戸市の上竹氏で同12年8月29日の採集。「馬方三下り」の方は三戸郡北川村の川守田きわさんの演唱で同16年5月15日の採集である。



地形歌 陸奥国上北郡野辺地町

前の二つは大変面白い発見採集であった、というのは現在北海道方面の鰊漁に歌われているアリヤリヤン節やソウラン節の原型であるからである。現在鰊漁に使用する建て網は幕末の頃に南部の漁師が伝えたという記録が存するので、その仕事歌のごときも南部方面からの移入ではあるまいかと推定していたが、野辺地付近でこの歌が採集されたことによって、この推定を確認しえたのである。昭和12年9月1日の現地採集で演唱者は新谷菊三郎、桜井よし両氏。また「組の子土橋」は八戸市で中川原まつさんの演唱を採譜。



津軽山唄 陸奥国青森市

(イ)「津軽山唄」は後出の「南部山唄」(102ページ参照)と同じく現在ではお祝いの座敷歌としてのみ歌われ、山唄の字義を失っているが、柳田國男先生は「民謡覚書」収録の「山唄のことなど」の中で「私の想像では、これも一つのかがひ唄であったかと思う。野菜を今日のごとく畑で栽培しなかった時代には、春は雪の融けるを待ちかねて、山へ青物をとりに行くのが習いであったが、この仕事ばかりには、きまってどこの村でも若い男女をやることにしていた。ちょうど人の心の和らぐ時であり、唄の最も豊かな季節ともなっていたので、おそらくこういう人々が雪の降り積もる中から、待ち焦がれていた日であったろうと思う。したがってそれがたとえ定まった習慣でなかったにしても、事実においては若い者が互いの心を見、未婚者の身を固める好機会となっていたことはまず疑いがない」(下略)と記しておられる。それで里へ下って酒宴の唄と化したのも相当に古いらしく、菅江真澄は「一曲」に津刈の十五七ぶしとして「十五七がやい、沢をのぼりに笛を吹く、峰の小松がみななびく、外敷首の歌詞を採集しているし、南部方面では宇夫方広隆の「遠野古事記」に年賀、端午の節句に士族の家へ集まった百姓が「椀飯」と称する無頼講の酒宴に田植え唄や山唄を歌ったことが記してあるというから津軽、南部を通じて広くこの唄が敷衍していたことがわかる。陰旋法のどちらかといえばそう太い線ではないが哀調のこもったなかなか良い唄で、特に津軽のものは同地独特のユリの技巧が加わって繊細な節回しとなっている。

(ロ)その一は青森市の成田雲竹氏が昭和初年に鷲印レコードS1006Aに吹き込んだものを採譜したものまたその二は同氏の岳父留蔵氏が昭和13年7月16日に弘前局から放送した時の録音盤から採譜したもので骨組みはその一とほとんど同じであるが、節回しは俏素朴で古風である。その三は昭和16年5月15日に青森局で、南津軽郡大杉村の川崎きえ(22)さんが演唱されたものでいわば現代詞というべきもの。なおこの「浪岡が、原生林の銀杏の木は」云々の歌詞は真澄翁の「一曲」に浪岡の草刈りぶしとして掲げてあるものと同じである。その四は成田雲竹氏が昭和12年4月26日に秋田局から「東通り」と命名して放送した時のもので、これは陽旋でだいぶ変わってきている。なお同氏はこの時「西通り」として「木造は、出端も入端もよいところ」の歌詞を歌われたが、これはその一と寸分違いはない節わましであった。ついては「東通り」「西通り」とは何を意味するかということを当時同氏に問い合わせたところが、岩木川を中心として西の日本海方面すなわち西郡、北郡の山唄の節が「西通り」東郡、中郡、南郡方面の節が「東通り」といい昔は節が豁然として分かれていたが「東通り」の節はなかなか難しいので歌いこなせる人がなくなり、明治の初年頃から次第に「西通り」の節が共通して歌われるようになったとの回答を得た。すなわち本譜に示した雲竹氏厳父の隆蔵氏や川崎きえ氏のものは「西通り」の節で「南部山唄」の節とも同系である。

(ハ)藤井清水、町田嘉章

(二)詞型は五七五、七五を原則として、歌によってはこの詞型を反復する。しかし実際歌うところを聞いていると、たとえばその一において十五ヤ、十五七が、山を登りに、笛、笛吹けば、峰の小松は、みな、みな開く、と不思議な反復をしているのがこれを曲節のリズムの上からかんがえると、十五ヤ十五七が 山を登りに 笛笛吹けば 峰の小松は みなみな開く、となって八七七七七という詞型となる。したがってこの唄の節は七七七七七という歌詞にできたのを、のちになって五七五、七五の詞型の歌詞を歌いこめるようになって、その字句の不足分を一部分の反復によって補ったのではないかというような想像も湧く、いずれにしてもこの反復はほかに類例のない妙な反復というべきである。



山唄 陸奥国三戸郡上長苗代村

(イ)以上三つは八戸市付近を中心として三戸郡の東部地方に歌われた山唄でまた盆踊りにも流用されたという。ただし元来盆踊り唄であったものを山仕事にも歌ったのか。山唄を盆踊りにしたのか両者の前後関係は判然しないが、いずれにしても「なにやとやら」から変化してできたものでそれがいずれが先ということもなく山唄にも盆踊りにも用いられたと見るのが至当であろう。ただし「山じんく」や「ヤツチョイ」のろのように歌詞を反復しているのは盆踊りとしての唱法で音頭とほかの連中とが掛け合いに歌う関係上生じた形態で、山で歌う場合には必ずしも反復しない。

(ロ)「山唄じんく」は昭和18年7月30日八戸市で中川原まつさんの演唱を採譜したものであるが「なにやとやら」の羽音終止形態がそのまま隠旋化したもので、隠旋の羽音終止という珍しい形である。「ヤツチョイ」の演唱は下長苗代村字悪虫の在家タネさん「朝草刈り」は上長苗代村字尻内の小笠原すえさんでともに昭和16年5月15日採集。

(ハ)藤井清水、町田嘉章

(ニ)「ヤツチョイ」のいはナニヤトヤラの原詞にヤツチョイを付加したものだが徴音終止に節を新しくしている。次にろの方「姉コアこちや向けはいの方の節を延ばして七七七五調の歌詞をからめた一種の新型で年代的にいえば七七七五調完成の徳川中期以後の工夫であろう。また「朝草刈り」は同じくナニヤトヤラの変形ではあるが、この方はいのように八七五、八五(原則としては七七五、七五で節ができたものへ、後年ろやはのような七七七五の新歌詞をからめて歌い直したものらしく、そのことは楽譜について両者の字音とリズムとの関係を調べてみるといが自然でろ、はが不自然であることを指摘し得る。



銭吹唄 陸奥国八戸市

(イ)銭吹唄は徳川時代に南部領の大迫や伊達領の石巻へ銭座が設けられ鉄銭を鋳造していた頃に踏みに歌われた作業唄だが、それが明治維新後銭座の廃止とともに祝い唄として酒席で歌われることになり特に三戸郡の五戸や八戸では両手に小皿を二枚持ってそれを鳴らしながら踊る。

(ロ)その一は八戸市の上野翁桃氏、その二は尻内町の小笠原すえ氏で前者は隠旋に後者は陽旋に歌っているのも面白い。昭和15年8月20日の採集。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。

(ニ)詞型五七五の反復、曲型AA。なお岩手県(117ページ)宮城県(178)の銭吹唄の条および「鉄銭坂」の分布とその系統(118ページ)を参照のこと。



おぼこ祝い唄 陸奥国三戸郡上長苗代村

(イ)おぼこは奥羽地方における乳飲み子の方言でおぼこ祝いはすなわち出産祝いのことである。倅に迎えた嫁に初の子供が生まれた時などは、後継者も定まり、嫁との中も一層緊密になるわけで、家の者はもちろん近親も相寄ってお祝いするのは当然で、また当主からみれば嫁にできた子は孫に当たるから、これをマゴイワイとかマゴブルマイあるいはマゴダキと称して、生まれた子供の前途はもちろん、一家の将来を祝福する習俗はほとんど全国的である。ところでこの八戸を中心とした三戸郡地方では初産は里方ですることになっており、出産七日目を「枕下げ」と称して近親の女客を招いて酒宴を開き、生児に初めて着物を着せ、形式的に膳をあてがってやる。膳には石とネギを添えるが、これは石のように堅く育つように、またネギは着物をいく枚でも重ねて着られるようにとの呪いである。そしてこの日の主賓は嫁入り先の実家の母親で子供の着物と酒を持って初対面に来るのである。「婆さどこ行く三升樽下げて、嫁の在所(お里)に孫抱きに」という里唄はこの辺の習俗を物語っているもので奥羽地方以外にも長野県岐阜県外各地にある。この孫祝いの当日に歌われるのがこの唄であるが、これは上長苗代字尻内の小笠原すえさんの演唱でこの地方だけの特殊のものらしく八戸や、五戸外の地方では孫祝いの唄としては銭吹唄が用いられているらしい、そしてその歌詞はここにあげた「おぼこ祝い唄」の歌詞よりもなお一層よくこの習俗の内容を伝えている。すなわち「婆様むす、二升樽下げてどこさ行く 行くともす、嫁御の里さ孫抱きネ 孫も孫、初孫抱くにおめでたい 産着には、五色白もらたおめでたい 小楯には、あやめに桔梗に紅色染 大楯には、鶴と五葉の松」以上五七五、七五の反復型で「鉄銭坂」の節をそのまま流用しているわけであるが、前掲の「おぼこ祝い唄」は七五の反復を原則としているので、あとになって尻内地方だけで何かの唄を流用して作り出したものであろう。

(ロ)この唄は小笠原すえさんの専売ものでたびたび放送もしている。



けんりょう節 陸奥国青森市

(イ)けんりょう節というのは津軽地方における、中をくにの「松坂」の異名である。けんりょうは人名で、越後柴田の生まれで松崎謙良という唄の名人がいて「松坂」はこの人の作だというような伝説さえあるくらいで、その名の謙良をとって「けんりょう節」と称したという、しかしこの松崎というのは果たして実在の人であるかどうかは確証はなく、ただ幕末の頃松前(今の北海道)江差が鰊漁の中心地として「江差の五月は江戸にもない」とまでいわれtが、その盛り場を目当てに南部から渡ってきた佐の市という座頭がケンリヨ節を歌い出し、その歌詞に「あやこ(浜小屋の女)よければ座敷がもめる、もめる座敷はケンリヨ節」というのが流行したということが石島氏の「追分節の今昔」そのほか追分節の歴史を書いた本には必ず一挿話として付記しており、それによるとケンリヨ節は佐の市の創作のように記してある。現在津軽方面にわずかに残っているこのケンリヨ節は、すなわち江差で流行していたものが逆に津軽海峡を超えて移入してきたものらしく、面白いことには二の句以下の奥の座敷、から鷹はさえずる何と聞く、までの中をくにの部分は「出雲節」の一節を挿入していることで、いかにも船乗り相手に酒の座敷で歌われたらしい痕跡を明らかに留めているのである。

(ロ)昭和16年5月15日青森市で成田雲竹氏の演唱を録音。

(ハ)藤井清水、町田嘉章

(ニ)なお「松坂」との関係は「奥羽地方の松坂とにかた節(250ページ)の条を参照されたい。



彌三郎節 陸奥国中津軽郡堀越村

(イ)これは不思議な来歴を持つ唄である。言い伝えによると文化5年(2468)の秋、今の西津軽郡木造町の隣村の森田村字相野小字相野に彌三郎という百姓がいて人を介して隣村の水元村大字妙堂崎村字大開の萬九郎から嫁をもらったところが、親たちに気に入らず邪険に酷使するのみか、当の彌三郎も両親を憚っていたずらに傍観するのみであったので、離縁となったが、その際に、去られゆく嫁は長い間の虐待に憤激やるかたなく長持に腰をかけながらこの唄を口ずさんだというのである。しかしながら、いかに虐げられたといいながら嫁が舅や夫の悪口を数え歌にして並べ立てるなどということは実際ありうべからざることで事実とは信じられない。おそらくこれはこの嫁いびり事件に対して嫁さんの方へ同情して彌三郎一家を憎むものが歌にしてこれを罵り、一種の社会的制裁を加えたものであろうと思う。これも彌三郎エーという囃し句は「彌三郎のためだ」という非難の意味であることはもちろんで、世間の同情は嫁方にあったためにこの唄はたちまち広まり、津軽一圓にも伝えられるようになったものと思われるのである。しかしこれには心中話の読み物などと一緒に最近ニュースとして面白おかしく村々を歌い歩いたものさえあったのかもしれない。それがために封建的な我が国の家庭にあって最も多かったはずの嫁虐待の日常茶飯事件が、意外にも歌によってその汚名を万代に残すことになってしまったのである。

(ロ)中津軽郡堀越村の浜谷初太郎さんの演唱で昭和16年5月15日の採集である。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。



よいよなか節 陸奥国八戸市

(イ)この三つの歌はいずれも明治の初年から末年にかけて八戸地方に歌われたもので「よいよなか節」のよなかは景気のよいことで、歌詞から判定すると湊、白銀あたりの大漁節として行われたらしい。しかるにその後津軽方面から「よされ節」がこの地方へ入ってきて本調子の三味線に合わせてお座敷などで歌われたのが「本調子よされ」でいわば津軽よされ(古調)と「よいよなか節」の合成で生まれたものである。そしてこの餅蒸しの歌詞はその頃に八戸に各種の名物餅があったのでそれを当て込んでできたものという。そこで今度はその「本調子よされ」の曲節をもとにしてさらにまた新しく作り直されたものが「よされ大漁節」なのである。

(ロ)「よいよなか」と「本調子よされ」は八戸市ぼ上野翁桃氏「よされ大漁節」は上長苗代村字尻内の小笠原すえさんでともに昭和15年8月15日の採集である。



南部にかた節 陸奥国八戸市

海岸の船着場を中心として酒の座敷で歌ったり、踊ったり、また拳を打つのに用いられたりする俗謡に「あいや節」がある、ともに海を渡ってはるばると奥州の極地まで船で運ばれてきた歌であるが「アイヤ節」の方は北九州の平戸付近の発生で「ハンヤ節」とも呼ばれるが、それが日本海沿岸伝いに各地の歌に影響を及ぼし、あるいは盆踊りの歌となり神社の踊り歌となったりして北上し、奥羽地方では山形県では「ハエヤ節」と称し、秋田県へ入っては「アヱヤ」または「エイヤ」と呼ばれ津軽から南部地方へかけては「アイヤ節」で通っている。しかし同じ青森県下でも津軽と南部とはだいぶ曲趣が違ってきている。特に「津軽アイヤ」「南部アイヤ」と呼ばれるゆえんである。「東北の民謡」の記事によると明治の初年に鯵ヶ沢沿岸に鰊の大漁があった時にこの歌が大いに流行したという。また南部方面でも野辺地や八戸の湊や鮫あたりで大いに行われ、お座敷ではこの「アイヤ」のほかにも「酒盛り」「じんく」「道中節」「銚子節」などというのが次々に演ぜられ、果てはちょうど組曲のようになって全体が「アイヤ節」のように考えられた時代もあったが、その後「じんく」だけが残って他のものは滅びてしまった。現在岩手県の遠野地方に伝えられている「銚子節」はたぶん八戸地方から移入したものであろうとのことである。また津軽と南部アイヤとの曲節上の相違は楽譜と比較してみてもわかるように「津軽アイヤ」は隠旋化しており、全体に津軽式のユリが多く技巧的であるのに対して南部の方はそれに比べて淡白な節回しとなっている。そして以前には歌の中へ「ハツトサツサイ」という掛け声を入れて歌った(東北の民謡)ということであるが、現在では略してしまっている、しかし同じ南部でも岩手県方面(133ページ参照)では現に入れて歌っており、これが宮城県の塩釜地方へ行って「塩釜甚句」のハツトセ節となったのである(193ページ参照)。なお「アイヤ節」については別稿「ハイヤからアイヤへ」(34ページ)を参照ありたい。


次に「南部にかた節」はにいがた(新潟)が詰まってにかたになったもので近年「荷方」の字を当用している向きが多いが誤りである。この「にかた節」は「松方節」と同じものなのであるが、本譜にあるように「新潟出てから」云々という歌詞の冒頭の文句を取って曲名としたのが最初らしく、つまりこれは越後方面から松前地方へかけて出稼ぎに海を経由して来た人々によって伝えられたものらしい。秋田県ではこの「にかた節」が座敷用の祝い唄としてのみではなく、草刈りの山歌や、神社祭壇の夜篭り歌などにもなっている(249ページ参照)なお詳しくは「奥羽地方の「松坂とにかた節」(250ページ)の条参照。


(ロ)「津軽アイヤ」は川崎きえ「南部アイヤ」は川守田キワ「南部にかた」は石塚勘次郎氏の演唱。



十和田湖の山歌

「菜の花や蝉の声きくみちの湖」名匠河東碧悟桐翁が十和田に来遊した時に詠んだ句と聞いております。私が初めて祖父に伴われて十和田の開墾地へ行ったのは19の年でありました(中略)祖父の家には女たちに混じって一人の百姓の娘がおりました。この娘の名を八重といって私より一つ年下の18で、山の中には珍しい美人でございました。母親がなく父の辰に育てられましたが、その父のところへ(中略)後妻が入ってからは、兄の太郎夫妻が別居し、また八重には綱という怠け者を婿にもらってきたので、これを嫌った八重は婿が来るなり私の祖父のところに来てもらったということです。私と八重は仲良しになりました。十和田は山の物に恵まれたところでございます。春はしどけ、ほうなや路にはうどなどいろいろな青物があります(中略)秋になってからはしいたけをたくさんとって来ました。ある日私も八重に伴われて山葡萄をとりに行きました(中略)八重は木の上に登ってとりました。彼女は歌が上手で盛んに美声で歌います。この地方の山歌という歌で私などにはちょっと真似ができませんのに、山を震わすごとくに歌いました。「おらも行きたいあの山越えて、久しぶりだと言われたい」「思い思われ親さまきかぬ、ならば首尾よくもらい受けたい」。彼女の歌う歌は、今は忘れましたがみなこんな歌ばかりです。そうして私に返しを歌ってくれというのでした。私は歌いませんでした。しかし彼女は間違ってもよいから歌へと申します。山歌は必ず返しがなければならないと見えます(中略)ある日彼女は私にこのような話をしました。私の父は後妻に騙されて、綱のような者を婿にとったが、私は綱が嫌いで旦那様のところへ来ました。あんなことをせずに、私を嫁にほしいという者にやってくれればよい、私も行きたいということでした(中略)。彼女は兄嫁の弟の市を慕っていることがわかりました。山歌の意も解されました。市は十和田の山を越えた戸来村の者で木樵で最も美男でした、それから間も無く私の家から八重の姿が見えなくなりました。村に市が来たということでした(能田多代子氏「村の女性」)。



ハイヤからアイヤへ 奥羽地方における分布

アイヤ節は九州からの移入

奥羽地方には九州のハイヤ節から変化したと思われる歌が、ほとんど六県にわたって分布するが、その名称にも多少の相違がある。すなわちこの歌は九州地方の船着場の酒宴の歌として発生したものであるが、北前船に運ばれて山陰から北陸、奥羽と長い旅を続けつつも、一方には瀬戸内海に入り、いずれも海岸地を中心にまれには石川県白峰村の傘踊りのような歌にもなって、長い日本の海岸線をほとんど半周し、その分布の広い点では「松坂」と好一対をなしているのである。元来この歌は九州のどのあたりにいつ頃から行われ始めたのかは確実にはわからないが、だいたい平戸付近の田助港あたりが誕生の地らしく、現在では同地は見る影もない一漁村にすぎなくなってしまったが、藩政時代には北九州の海岸の唯一の避難港として栄え、日夜歌の絶えることなく「田助節」の名に呼ばれたのを「ハイヤー」という歌い出しを持つところから「ハイヤ節」と呼ばれてたちまち各地に伝播することになった。しかしながらこの歌はそうした流行歌的性質を持ちながら江戸、大阪などの都会地には全然流行らなかったものと見え、文献としてほとんど記録がないため、文献による学者間には比較的新しい誕生のように考えられているが、その詞曲型および各地の分布状態などから考えて、越後の有名の「おけさ節」の曲節はこの「ハイヤ」の曲節から分派してそれに新しいおけさの歌詞を布せられたものであることが、民俗学的探求によって明らかになったから、少なくとも九州のハイヤは「おけさ」以前の誕生で明和、安永、天明頃とおぼしく、したがって奥羽のアイヤ節はその「おけさ」以後すなわち「おけさ」の名が文献に現れた文化以後であることはもちろんである。



奥羽地方アイヤ諸々相

ハイヤ節は三味線、太鼓の囃し賑わしく速度の早い陽気な歌だけに、酒の座敷の歌としては「騒ぎ甚句」と同じ特色と目的を持っているが、曲の構成は違う、すなわち「騒ぎ甚句」は宮音が旋律の中ほどにあって上の句、下の句ともに節尻が下位の徴音に終わっている。ハイヤ節は宮が高低二個あり(宮の二つあることは音域の広いことを示し、甲高い音を出すことで、これが海歌の特色である)上の句の節尻は二つの宮の真ん中の徴に止まり、下の句は低い宮に終止する、これが特色で越後のおけさも同型なので、奥羽のアイヤ節もすべてみなこの曲型に準じているが、その発音、技巧などにはそれぞれの土地の郷土色が加わっていかにも奥羽地方の歌らしい個性を出している。山形県では「ハエヤ節」と称しやはり昔は酒田、加茂あたりの船着場で歌われたが、明治以後に庄内地方では農休みの慰労には「土洗い節」と呼んで必ず歌うようになった(375ページ参照)。また秋田県ではやはり土崎、本庄、金浦あたりの海岸地帯に盛んで、その中の金浦採集のものを収録したが、これはさらに山間部に入り仙北郡では「アヱヤ」または「オケシヤ」と称して祭壇の踊り歌にしている(281ページ参照)。青森県では「アイヤ」と呼んでいるが、青森方面の津軽領と八戸方面の南部領とは対立していて全然節が違い、前者はいわゆる「津軽アイヤ」で極めて煩雑な津軽式技巧を加えており、旋法も全く隠旋化して別のもののようにして歌っている(30−1ページ参照)。また八戸の方の「南部アイヤ」も津軽ほどではないが相当に商売人的な技巧が加わって素直でないものになっている。



藍釜甚句はアイヤ節の変態

次に岩手県に入って宮古や釜石地方に行われ正統「南部アイヤ」にはハットサッサという掛け声囃しがつくことになったが(133ページ参照)これがさらに伊達領の藍釜港へ行って「藍釜甚句」(193ページ参照)となるのだが、藍釜甚句のことを初めハンヤ節と称したのは全くこの「南部アイヤ」のハットサイを取り入れたからで、典型としては上下の句ともに徴音終止の「騒ぎ甚句」形に属す。福島県では原釜あたりから上陸したのであろうが、相馬郡地方では一般にやはり酒の座敷歌として用いている(475ページ参照)。



津軽音頭 陸奥国青森市

(イ)ともに座敷歌として踊りもあり、座興を添える騒ぎ歌の一種で三味線の伴奏がっつく、そして「津軽音頭」は津軽地方に「広大寺節」の方は南部領の野辺地を中心に上北、三戸、二戸郡地方(133ページ参照)に及んでいる。「津軽音頭」は津軽4代信政公の貞享時代(2344―47)に西津軽郡鳴沢、森田、柴田、越水の諸村に開墾事業が起こされた時、秋田方面から来た出稼ぎ人が作業に歌っていたのが土地化したもので明治時代までは「秋田節」と呼ばれていたのを大正時代になって本演唱者たる成田雲竹氏などが「津軽音頭」と改めた。また「広大寺節」は越後の女歌「新保広大寺」が船で運ばれて来たものである。

(ロ)「津軽音頭」は成田雲竹氏で昭和16年5月15日の採集「広大寺節」は野辺地町の櫻井よし(61)さんで昭和12年9月1日の現地採集である。



じょんがら節 陸奥国青森市

(イ)じょんがら節の名は南津軽郡浅瀬石村を通ずる汗石川の上の方に上河原と呼ぶところがあり、慶長の昔大浦為信に滅ぼされた浅瀬石の城主千徳政氏の墓地があったが、津軽藩で土地開墾のため墓地をあばこうとしたのを菩提寺神宗寺(今の長寿院)の僧常緑が反対して藩士の怒りを買いついに追われて上河原の深州に身を投じて節を全うしたので、以来村民は常緑河原と呼びならし、追悼のため歌い出した口説風の歌がすなわち常緑河原(ジョンガラ)の起源だというのである(東北の民謡)。しかしこの歌の節の元は越後から女たちによって諸国に伝播された「新保広大寺」くずしのとのさ節ないしヤンレ節が奥羽地方にも歌われ、例えば相馬における相馬くどき、山形県の最上くどき(388ページ参照)秋田県の蛤節(286ページ参照)となっているからこれが津軽へ入ってじょんがら節という名によって津軽化したものと考えられる。曲態は八八が三連で一曲をなすがもちろん口説であるから、以上の曲態を反復しつつ長編を歌っていくので、最後のヤンデーという結びの詞を添えるのはすなわちヤンレ節の変化であることを示しているのである。

(ロ)このじょんがら節は発生当時から今日までにだいたい曲節が三度変わっているので、幕末から明治20年頃までを一期として奮節、その後大正、昭和の初年までを二期の中節、昭和3、4年頃から現在までを三期として新節と呼んでいる。楽譜その一は北津軽郡嘉瀬村の鎌田稲一さんが同一歌詞で奮、中、新の三通りを歌い分けたもので昭和17年10月17日の採集、その二はやはり新節に属するもので演唱は青森市の成田三次郎さんで同16年5月15日の採集である。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。



白銀ころばし 陸奥国八戸市

(イ)白銀は、今も八戸市湊町の鮫湾に面した漁村の名前で、漁師の女房たちが獲れた魚類を、鮫や小中野の遊郭へ売りに行く道すがら、その頃はまだ開けないで人通りもなく、一面の野原で狐がでるという噂におびえながら、歌って歩いた「騒ぎ甚句」がいつしか鮫の遊郭のおしやらく(遊女)たちにも歌われるようになり、三味線にも載せられて普通の「騒ぎ甚句」とも違った独特の風趣を持つようになった、そして「白銀ころばし」とも「白銀ころし」とも呼ばれるのは玉を転ばすように美音を意味し、またその美音によって悩殺することを意味する。

(ロ)その一はいわゆる古調に属するもので三味線伴奏のない漁師の女房たちが往来を歌って歩いた当時の曲調で八戸市の荒川つなさんの演唱で昭和15年8月20日の採集、その二は同市の上野翁桃氏で同16年5月15日の採集。



農家と嫁の仕事

農村の早婚は労働に基因しておりますから嫁婿をもらうことを「稼ぎ手」をもらうというくらいで一人前とは申しながらまだ年若い者たちの勤めは並々ではなく、冬の朝、夏の炎天、田畑で働くほかにまた家には牛馬の飼育が控えています。この地方の米鋤歌に「一人嫁を市川さくれて、朝は早起き飯を炊き、四十八からの馬のふね、これを見せたい、我が親様に」。

 子供の時のうろ覚えのもので、少し違っているかもしれませんが、とにかく嫁に来てから毎日毎日朝早起きしての労働に、冬の寒い日にははれでも切れてうらめしいこともままございましょう。数多い飼桶を眺めて自分の苦労を愛する両親に同情してもらいたいと嘆いている歌でございます。家族の多い家では、五升鍋、一斗鍋という大きな鍋を抱えて煮炊きもしなければなりません。「女は鍋力」と申しまして鍋を持てないような女は無能な者に取り扱われます。特に五月の田植え時には猫の手も借りたいという忙しさです。夜の明けない二時頃から起きて田植えの支度にかかります。早乙女として田に入れば、人に遅れると「坪に入れられる」といって、一人田の中に残されるような植え方を老練な人々にされて辱められて泣かされるような目にあわされます。真夏は草刈りに未明に起きでて、馬一駄分は朝飯前の仕事と定められています(中略)。夜が長くなれば粉挽き、糸さかし「さかしとは扱うこと」など夜なべに暇もありません、そうして明け暮れ忙しい月日を送っているのですが、そんな生活の中に彼ら嫁たちの一番の楽しみは春秋の里帰りでございました(中略)。二百十日も無事に過ぎ村のお祭りも終われば刈り入れで、ヤマ仕事(耕地作業)には仕事(屋内作業)に夜も昼もなく働かねばなりません(中略)。この予定の仕事が終わると「秋じまい」で家々では農神を祀って祝います。神には十六団子を作って供え、この日は嫁婿が里に招かれて行きます。それが終わって10月の20日は、嫁たちが何にも増して待ち焦がれる里帰りの日で30日間は泊まって来られる慣例でした。(能田多代子氏「村の女性」)。



八戸甚句 陸奥国八戸市

(イ)ここのあげた「八戸甚句」というのは土地では単に「じんく」とも「藍釜」とも「藍釜甚句」ともいって宮城県の「藍釜甚句」を移入して鮫や小中野で歌っていたものなのである。しかしここでは本物の「藍釜甚句」のようなハットセという囃しはつけず歌の終わりにオワラオワラと囃した。また青森地方でも「藍釜甚句」を移入し、やはり「藍釜」の名で「浜の町から沖ながむればサ、鰯大漁のオワラまねあげたハアオワラナなどと歌い、要するに明治37、8年頃までは現在の「八戸甚句」も「津軽小原節」も「藍釜」の名によって同じような節で歌われていたのである。しかるに津軽ではこの「藍釜」に入れ文句をして歌詞を引き延ばして口説化し一番最後に藍釜当時の節で「何が何してオワラ何とやら」といい結びをつけるだけにしたので、全く別の歌になってしまった。そこで大正の末年頃に土地の民謡家の成田雲竹氏などが津軽小原節という新しい名をつけレコードなどに入れて宣伝に務めたので爾来「津軽小原節」として知られるに至った。また八戸の「藍釜」の方もやはり土地の民謡家の上野翁桃氏が昭和5年中、初めてラジオで紹介した時に「八戸甚句」という名に改めて放送したので、爾来これが通り名となったのである。

(ロ)「八戸甚句」は八戸芸妓喜代二が演唱したものでコロムビアレコードからまた「津軽小原節」は濱谷初太郎氏の演唱で最近の節回しである。



八戸甚句 陸奥国八戸市

(イ)ここのあげた「八戸甚句」というのは土地では単に「じんく」とも「藍釜」とも「藍釜甚句」ともいって宮城県の「藍釜甚句」を移入して鮫や小中野で歌っていたものなのである。しかしここでは本物の「藍釜甚句」のようなハットセという囃しはつけず歌の終わりにオワラオワラと囃した。また青森地方でも「藍釜甚句」を移入し、やはり「藍釜」の名で「浜の町から沖ながむればサ、鰯大漁のオワラまねあげたハアオワラナなどと歌い、要するに明治37、8年頃までは現在の「八戸甚句」も「津軽小原節」も「藍釜」の名によって同じような節で歌われていたのである。しかるに津軽ではこの「藍釜」に入れ文句をして歌詞を引き延ばして口説化し一番最後に藍釜当時の節で「何が何してオワラ何とやら」といい結びをつけるだけにしたので、全く別の歌になってしまった。そこで大正の末年頃に土地の民謡家の成田雲竹氏などが津軽小原節という新しい名をつけレコードなどに入れて宣伝に務めたので爾来「津軽小原節」として知られるに至った。また八戸の「藍釜」の方もやはり土地の民謡家の上野翁桃氏が昭和5年中、初めてラジオで紹介した時に「八戸甚句」という名に改めて放送したので、爾来これが通り名となったのである。

(ロ)「八戸甚句」は八戸芸妓喜代二が演唱したものでコロムビアレコードからまた「津軽小原節」は濱谷初太郎氏の演唱で最近の節回しである。



黒石甚句 陸奥国南津軽郡黒石町

(イ)騒ぎ甚句として最も新しい形で、全国に普及しているもので、したがって郷土色は極めて希薄な俗謡である。二上がり詞の三味線に合わせて歌うので普通二上がり甚句などと呼ばれるが、その地名を冠して「黒石甚句」とか「野辺地甚句」などともいう。また本調子の三味線に合わせて歌うものを本調子甚句といい、これも各地に普及しているが、両方とも三の放弦音に終止するから二上がり甚句は宮音終止、本調子甚句は徴音終止となり、二上がりは本調子に対して五度上に移調したものと考えられるが、実際に聞いたところでは二上がり甚句は極めて陽気であるのに対して本調子甚句は渋くかつ落ち着いている、これは調弦の相違から来た特性らしい。なお秋田県鹿角地方でいう「津軽甚句」や「来満節」(284ページ参照)も同じものである。

(ロ)その一は黒石町の人々の演唱で昭和16年5月15日採集、その二は野辺地町の櫻井よしさんで同12年9月1日の現地採集。



岩木山参詣の歌 陸奥国弘前市

津軽氏10万石の城下、弘前市から北西約11キロの地点に、秀麗「津軽富士」の名に呼ばれている岩木山がそびえ、国弊小社岩木山神社が鎮座する。当社は社伝によると光仁天皇の11年(1440)に宇都志国玉命、多都比毘売命、宇加能売命の三柱を祭祀したもので、延暦19年(1460)征夷大将軍坂上田村麻呂が当社の霊験によって東夷平定の偉業を完遂したので、父苅田麿命の霊を合祀して再建し、北麓の十腰内村に社殿を建てて下居宮と称し、爾来山頂を奥宮または本宮と呼んでいたが、寛治元年(1751)に下居宮を今の岩木山百沢に遷宮し奉り、世世の地頭、領主などいずれも崇敬し、津軽氏の祖大浦為信から歴代の藩主が神域を拡張して善美を蓋し、奥の日光とさえ呼ばれるに至った。したがってその領民の信仰の厚いのも当然で、毎年7月28日から8月18日に至る登山期には「御山参詣」と称し、男子に限って7日間のタブーに沐浴し、当日は白衣の姿も凛々しく笛、太鼓に和して口々に唱文を携え山頂の奥宮に奉納する。



ナヲハイ節 陸奥国北津軽郡相内村

(イ)北津軽郡相内村は十三湖の北岸にある村落で、十三が海港として栄えた鎌倉、足利時代には寺院仏閣が甍を並べ、いわゆる津軽二千坊の中心地をなしていたというが今は寂れて荒涼たる僻村と化している。ナヲハイ節ともナニモサア節とも呼ばれ、踊りは坊様踊りと称される。歌の唱法は女が音頭、男が下音頭という部分を受け持って掛け合いに歌うのが本則で、女の歌う音頭の節は隠旋、男の方の下音頭は陽旋となっている。かかる例はほかにほとんど類例を見ない。

(ロ)昭和16年5月15日採集、放送協会「民族資料」音盤から作成、演唱は同村有志。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。

(ニ)詞型は七七七五が骨子で複雑な反復をする。



十三の砂山 陸奥国西津軽郡十三村

(イ)「十三の砂山」は現在西津軽郡十三村地方に行われている盆踊り歌で、楽譜に示した「十三の砂山」云々が元歌と見られているところから、この歌を「十三の砂山」または「砂山節」という。元来この地方は岩木川を始め大小十三河川の流入する十三湖が西に日本海と交わる砂嘴上にあって、往古安東氏がこの付近に福島城を築いて権威を振った鎌倉時代には、日本七港の一つとして遠く敦賀松前方面との交通も行われ、津軽文化の培養地となっていたが、安東氏の没落とともに爾来六百年、河口の砂上の埋積は大船を入るるに足りず、季節風の襲来のため湖口の閉塞は一年数度に及ぶなどの地理的欠陥がこの地の繁盛を奪い、現在は見る影もない荒涼たる不毛の一漁村と化した。そして十三は現在はジフサン、古くはトサと発音したが、安藤氏に代わって津軽一圓を統治した津軽家五代の信尋が元禄13年(2360)、土佐守に任官するに及んで、これに伴ってジウサンと改めたということである。しかしそうだからといって「十三の砂山(トサノスナヤマ)の歌詞は必ずしも元禄13年以前に作られたという議論は成立しないのであるが、面白いことには歌詞型において三の句の「西の弁財衆にや」を逆にして「弁財衆にや西の」と反復する方法は、民謡においては必ずしも多い類型ではなく(岩手県盛岡市の駒峰歌98ページが同例)文献によると元禄時代の歌謡に度々見られる形式であるから、以上の2点を照合するとこの歌詞は元禄時代にできたものと推定することは必ずしも不合理ではないようである。しかしながらこの歌詞は最初からの創作ではなく「酒田こやの浜米ならよかろ西の弁財衆にただ積ましょ」という「酒田節」なるものの替え歌式のもぢり文句であることはすでに柳田国男先生も指摘されている(民謡覚書収録酒田節)。もっとも「十三の砂山」が先で「酒田こやの浜」の歌詞ができたというような逆説が立てられぬこともないが、現在八戸市の「えんぶり」の踊り歌の中に「酒田節」というのが保存されており(62ページ参照)歌詞はやはり「酒田こやの浜米ならよかろ、西の船頭衆にやただ積ましよ」とあって、その反復方法は違ってはいるが曲節はだいたい「十三の砂山」と同じであるところから察すると「十三の砂山」が「酒田節」の換骨奪胎であることに間違いはなさそうだ(越後の頸城郡地方にもこの「酒田節」が「米大船」という名に変わって盆踊り歌として残っている)。だが遺憾なことにはこの歌の発祥地であるはずの出羽の酒田地方にはすでに全く滅びており、かつてこういう歌が歌われたというような文献、口伝えさへも残っていないから、この「酒田節」の原調と「十三の砂山」とがその詞曲型反復方法においてどの程度の相違があるかを、究明することは現在では全く不可能なのである。それはさておき、現在十三村では「十三の砂山」を盆踊り歌として用いているが、これはいつ頃からのことであろうか、津軽家五代の信尋公の元禄時代以降のことか、これも文献、口伝えになんら伝えるところがないので不明であるが、その歌詞から考えても、これは「舟唄」の援用であることはもちろんで、これについて楽譜51の「十三節」なるものが舟唄として梅沢和軒氏の「地方の風俗」の中に提出されており、採譜者は館山甲午氏で、同氏自身が筆者に語られたところによると、岳父館山漸の進翁(明治時代における最後の作曲家で安政3年弘前に生まれ、大正4年2月17日享年60歳で没した、平家音楽史の著がある)が好んで日常時ほとんど鼻歌のようにして歌われていたのを甲午氏が少年時代に聞き覚えていたものだという。これはまことに貴重な資料で、漸の進翁が故郷在住の明治の初年頃にはまだ舟唄としての「十三節」が津軽地方には残っていた証左で「十三節」の方は七七七五だけで「十三の砂山」のような反復はないのは舟唄としてはむしろ当然というべきだが、疑問なのは盆踊り歌としての「十三の砂山」がいつの頃から舟唄の「十三節」から派生したものか、また「十三節」と、原調の出羽の「酒田節」とはいかなる関係にあるのかの点で、「十三の砂山」と「十三節」との関係それによっても分明するのだが、現在に残された資料程度では到底解決しえないから、ただここでは事実だけを記録するにとどめる。さらにまた面白いのは楽譜52にあげた下北郡大畑地方の盆踊り歌で、古く明治の中期頃まで歌われたという「ナハハイ節」で、歌詞、曲調ともに多少の相違はあるが、やはり「十三節」や「十三の砂山」と連鎖性を持つらしい。すなわち陸奥湾を抱いて津軽半島(津軽領)と下北半島(南部領)とが相対峙して舟唄から変化した同系の盆踊り歌を持っていることである。

(ロ)「十三の砂山」は昭和16年5月15日青森局で地元の人々の演唱を採集。「ナナハイ」は昭和12年8月31日下北郡大畑町字小名目の畑中のい(73)の演唱録音であるが、老齢で録音が不明瞭で録音機ではどの節に歌詞が当たるのかわからないので、やむなく楽譜には歌詞を記さないで提出した。



嘉瀬奴踊り 陸奥国北津軽郡嘉瀬村

(イ)普通奴踊りというのは神社の遷宮式祭祀などの余興に出演する風流式のものだが、この嘉瀬の盆踊りの奴踊りはその系統から出たものではなく、伝統によると南北朝時代に足利氏に追われて嘉瀬村へ落ちてきた南朝の臣鳴海伝之丞の下僕徳助が主人を慰めるために踊ったので奴踊りというのであると。また「どだらば」(どだればち)は弘前を中心とした津軽独特の盆踊りで、地方色豊かな方言で歌う。

(ロ)奴踊りは嘉瀬村の鎌田稲一氏で昭和17年10月17日、どだればちは青森市の成田雲竹氏で同12年8月1日。



黒石よされ 陸奥国南津軽郡黒石町

(イ)南津軽郡黒石町は藩政時代には津軽家2代の信牧の三男信英が明暦2年(2316)に5000石で分封されて以来、津軽の支藩として栄え、黒石米の産地として有名であるがこの付近一帯に行われた盆踊り歌がこのよされ節である。しかしこの歌は黒石に発生したわけではなく「出羽国庄内節、別名よしやれ節」(天保年間編お笑い草諸国の歌記載)というのが酒の座敷の拳歌として諸国に流行したらしい形跡もあるから、その影響を受けて土地の盆踊り歌と化したらしいが、その当時は黒石地方だけに止まらず津軽一圓に行われたものと考えられるが、この七五七五の短詞型の歌が次第に長編のクドキ節化することになり、ついには全くその相貌を変じるに至って今日のいわゆる「津軽よされ節」(50ページ参照)となり、津軽のよされといえば七七七五調でない長編のクドキ節のことをいうようになった。したがって古調のままの「よされ節」は黒石地方だけに残ることになったのである。

(ロ)昭和16年5月16日採集、演唱は同地の松井米造、工藤ヤエさんなどである。

(ハ)藤井清水。

(ニ)詳細は136ページの「よされーよしやれ節の移動とその変化」の条を参照。



津軽よされ節 陸奥国青森市

(イ)「津軽よされ」といえば現在ではその二に示したようなクドキ調の長編詞型の歌となっているが、それは明治時代後期からの変化で、明治の中期頃まではやはり「黒石よされ」(49ページ参照)と同系のその一のような七五七五もしくは七七七五の短詞型の歌が本態となっていたのである。それを座頭や女たちが松前(北海道)の漁場を目当てに稼ぎに行く必要から、短い歌では座敷がつなげないところから、例えば「藍釜」を長編化して現在の「津軽おわら」にしたように、この「よされ」もその一を延長してその二のようにしたのである。なおこれについては、「黒石よされ」(49ページ)の条や「よされーよしやれ節の移動とその変化」(136ページ)の条を参照せられたい。

(ロ)その一は昭和12年8月29日に青森市で成田雲竹氏に演唱してもらった録音盤から採譜したもので、同氏が12、3歳の頃に歌われていた節だというから明治30年代の頃のものである。その二は同氏が昭和の初年に鷲印に吹き込んだ音盤から採譜したものである。



津軽民謡大会臨時の記

青森市の東奥日報社では県民の慰安娯楽と郷土愛の高揚とを兼ねて去る昭和9年から毎年郷土民謡の競演会を催し非常な成功を収めているとかねてから聞き知っていたが、今次戦争勃発後しばらく中絶していたのを、昭和17年9月復活するについて東都の大日本民謡協会に共同主催を求められて来たので、私は名誉審査員という資格を与えられ、理事長の中山晋平氏などとともに同月17日青森に赴き競演会に臨み、その歌手の熱演ぶりと聴衆の熱狂ぶりに接した。最初日報社では「青森県民謡大会」として全県下に呼びかけたのだが、県民性の相違かそれとも距離のためか八戸、下北、三戸方面は脱落し、津軽五郡の競技となったわけで、歌の種類は県下のものであれば何でもよいのだが、結局は一般聴衆が喜ぶ「じょんがら」「よされ」「おはら」の三曲の競演会となるに至っているのも面白い。なおこの大会を催す前に、津軽五郡に予選会を催して大会出席資格者を選出し、これらの人々が最後の青森市に集まって優勝を争うのである。またこの大会に集まって来る聴衆はあらゆる階級を網羅し、野良着そのままのおかみさんから、熊の皮を腰につけた山男の顔などで会場内は立錐の余地もなく埋められ一曲一節をも聞き漏らすまいとする真剣な態度と、自分の気に入った節回しに接した時の異常な興奮ぶりには何かしら一種の凄みさえ感じられた。



鯵ヶ沢甚句 陸奥国西津軽郡鯵ヶ沢町

(イ)津軽地方には時代を異にしてかつ地域的に様々な盆踊りが行なわれているが、したがって他所から流入した歌も多く、この二つもいつの時代かに、津軽へ入り込んだものである。「鯵ヶ沢甚句」は鯵ヶ沢地方に行われたからその名があるので同じ曲節で五所川原付近で歌われているものは「五所川原甚句」と呼んでいる。鯵ヶ沢は西津軽郡半島の七里長浜の砂丘のつきるところに開けた港で、三厩十三湖、深浦とともにいわゆる津軽四浦として開かれ、津軽氏が京地と往来するのは主として、この港を利用したものであるが明治維新以後は海運の系統が違って、陸運の整備にその繁栄を奪われた。この鯵ヶ沢が開港として栄えた当時、越後方面から輸入した(演唱者談)といっているが、越後の下越方面の「八社五社」「ヤサヤサ」「ヨイヤサ」などと称する盆踊り歌と同系で、その原籍は「兵庫くどき」の海老屋甚九郎がはるばると海を渡って来たもの。また津軽甚句と呼ばれるものは同じ名は甚句でもこれとは系統を異にしたもので、筆者の考えでは秋田県の商音終止の「古甚句」が北上して行って旋律形を変えたか、ナニヤトヤラの津軽化と思う。

(ロ)「鯵ヶ沢甚句」は同地の今別幸太郎(72)翁で昭和13年7月16日弘前局より放送演唱は盛岡市在住の成田留蔵(74)さん。



なにやとやら 陸奥国上北郡七戸町

(イ)ナニヤトヤラは南部領の一部に残っている日本民謡中で最も古調の一つでその発祥、伝統をつまびらかにしないが現在では盆踊りとして知られる。本県の所在地は三戸、上北両郡で野辺地付近まで及ぶ。

(ロ)その一は八戸市の中川原まつさん、二は上野翁桃氏でともに昭和18年7月30日採集、三は三戸郡上長苗代村の小笠原すえさんで昭和12年4月9日の放送録音、四は上北郡七戸町の木村勇吉氏で同12年9月1日採集、五は上北郡藤坂村有志で同17年3月9日の採集。



なにやとやらの研究

特異なる羽音終止の旋律型

特殊な盲詞的な歌詞によって「南部の猫歌」と俗称せられる「ナニヤトヤラ」はその形態、伝説においてまことに我が国の民謡中でのスフィンクスであり、かつ民謡研究者にとっても解き難き一種の謎であるが、これは主として音楽上から、筆者が判断しえる程度において解剖のメスを入れてみたいと思う。


ナニヤトヤラ発生の伝説とその分布

まず第一には「ナニヤトヤラ」云々という詞は、一種の呪文的なまた囃詞のような意味のない単なる語句の羅列であるか、あるいはナニヤトヤラは「何とやら」が変化したものであるというふうに意味のある詞として解すべきであるかというに、これには種々の浮説伝説が伝えられており、特に最近米国の神学博士川守田英二氏はカルデヤ系のヘブライ語だと発表(これらのことは武田忠一氏の東北民謡集「岩手県の巻」に詳しい)されたが、柳田國男先生を始め民俗や国史学者根拠なき妄説として否定している。しこうして現在この歌の歌われている範囲は青森県の上北、三戸南部、岩手県の二戸、九戸、岩手県に及ぶ南部領で、本書に収録した曲は青森県上北郡の七戸町、藤坂村、八戸市および三戸郡上長苗代村、岩手県二戸郡石切所村の五ヶ所に止まるが、武田氏の「岩手民謡集」には35曲の採集があって青森県上北郡野辺地町一、同七戸町二、同六戸村三、三戸郡五戸町三、同三戸町一、八戸市九、岩手県は二戸郡石切所村二、同浪打村一、同一戸町三、同小鳥谷村(奥中山)六、九戸郡津軽米町二、同葛巻村一となっているが、挿絵22にその分布圏を示した。


五七七の盲詞調から七七七五歌曲調へ

この「ナニヤトヤラ」の盆踊りは右回りで円陣を作って摺り足で進むので、踏む足数が13で一踊りとなるので普通13足踊りと呼ばれるが、12足で踊るものもある。また太鼓を入れることもあるが無しの場合が多く、参差踊りのように笛は全然使用しない。そして「ナニヤトヤラ、ナニヤトナサレノ、ナニヤトヤラ」を繰り返し繰り返しいく時間でもあるいは一晩中でも踊っているのであるが、のちになってそれでは飽きるところから土地によって意味のある歌詞を添加することになったらしい。元来、ナニヤトヤラは詞型から見れば五七五型であるから、その字音に合わせて作られたのが「場所じゃない、ここは踊りの、場所じゃない、ねたのよい、xxx並べて、ねたのよい、かかもろた、おやじだまして、かかもろた(以上八戸地方)「米の粉だよ、あやめだんごは、米の粉だよ、虎じよさま、酒こ(傘こ)買ってけろ虎じよさま(二戸郡小鳥谷村)「地蔵泣くベア、寺の十文字の地蔵泣くベア(二戸郡石切所村、浪打村)で、さらに曲節を敷衍して七七七五調をからめて歌うようになった。「盆の16日今夜ばかり(127ページ参照)「俺が若けときや山にも寝たが、山で木の陰、萱の陰(八戸付近)などで詞型、曲節ともにこうした追加によって暫時崩れて変化して行ったと考えられる。


旋律型の種類と特異なる羽音終止

このナニヤトヤラの旋律型には羽音終止、徴音終止、商音終止、宮音終止の四種類あるが、今「岩手民謡集」収録の35曲についてその比率を求めると以下のごとくになる。「徴音終止と考えられる曲22曲」(以下はその番号1、2、3、7、10、12、13、15、16、17、18、19、20、23、24、27、28、29、30、33、34、35)「羽音終止と考えられるもの9曲」(4、5、6、8、9、11、14、25、26)「商音終止と考えられるもの2曲」」(21、31)「宮音終止と考えられるもの1曲」」(22)「不明なるもの1曲」(32)。すなわちその比率においては徴音終止が最も多い。しかし本書収録の曲では青森県の属する八戸市、三戸郡上長苗代村(53ページ参照)上北郡七戸町、同藤坂村のい(54ページ参照)岩手県二戸郡石切所村(127ページ参照)採集の4種はいずれも正羽音終止と見るべきである。ただ藤坂村のろだけが徴音終止である。したがって以上の諸例に徴して見るに「ナニヤトヤラ」の旋律型は徴音もしくは羽音終止の曲が最も多いことになり、この羽音は五音階の第五音で、西洋七音階の第七音の相当し、導音的役目を有して我が国の旋法でも不安定音で負にも正にも変化する。その音で曲が終わるような感じになっているのだから鳥渡異数である。


正羽音終止から変化した商音終止

「ナニヤトヤラ」は現在では盆踊り歌のようになっているが、「同地方では一年中のあらゆる機会にこの歌が歌われており、例えば三戸郡地方の「草取り歌」(12ページ)の節はそのままであり、八戸地方で山歌にも盆唄にも共用される「甚句」(22パージ)は隠旋化したものでいずれも羽音終止であるが、この旋律を組み替えて徴dが宮音になるようにすると商e角g徴a羽の属調でこれは負羽型の商音終止となって「朝草刈り歌」(23ページ)や「十二足踊り」のような節回しになる。そこでその負羽のcを半音下げてhとすれば「臼摺り」「粉挽き」「米」(14ページ)いずれもこの旋律型に属す。この正羽音陽旋の商音終止曲は鹿角地方の盆踊り歌「古甚句」がそれで、この旋律型からさらに負羽型陽旋の徴音終止が出て、「騒ぎ甚句」になるのだから「古甚句」の曲節は実に「ナニヤトヤラ」から出たということになりそうである。



ナンヨ節 陸奥国上北郡野辺地町

「おしまこ」という盆踊りについては「上北郡地方誌」に「南部藩28代重直公巡視の際、時あたかも7月15日の盆に至る、代官所にて老若男女を集めて踊らしむ中に「おしま」なる美人あり、藩主おおいに喜ぶ。それより右のおしまこ踊り郡内に広まるという、くだんの踊りは三戸郡まで南部通り一圓流行す」とあって、その元歌として「田名部おしまこの音頭とる姿は、大安寺柳の蝉の姿、」とある。この重直は寛文4年(2324)9月12日に59歳で卒去しているから、この記事を真とすればだいたい徳川時代の初期のことになるが、おしまの美貌が大いに藩主を喜ばせたといい、田名部おしまこの音頭とる姿はという歌詞から考えても歌(曲節)の名であるべきだがおしまこ踊り郡内に広まる、として踊りの名のようにもなっている、それにおしまが藩主の前で初めて歌うのに「田名部おしまこの音頭とる姿は、大安寺柳の蝉の姿」と自分の名を詠み込んだ歌詞を歌うということも実際問題としてありうべからざることで、この歌詞は後人がおしまの美貌を讃えて作り出したものに相違なく、曲節はやはり「ナニヤトヤラ」の一種で、それが「おしま」という美貌家の出現によっていつか「おしまこ」という名に呼び変えられたものと思われるのである。なお歌詞に歌われた大安寺という寺は田名部から16キロほど離れている大畑町にあり、現在は枯れてないが藩政時代には有名な柳があったということで、この「おしまこ」という歌も大畑町から田名部へかけてが本場である。

(ロ)その一のいは大畑町小名目の畑中のい(73)さんに歌ってもらったもの、またろの方は野辺地町の八木橋つねさんの演唱で昭和12年8月下旬の採集旅行で現地録音したもので大畑地方では、のいさんの話によると「じんく踊り」ともいっているとのことであった。これによって推定するとこの盆踊りは元来歌の節は「ナニヤトヤラ」の変形、踊りは「じんく」であったものかおしまの出現で「おしまこ踊り」と呼ばれるようになったものらしい。またこの「おしまこ」は「下北郡地方誌」もあるように八戸方面にまで流行してきたが、歌の節も相当に変化して別物のようになってしまった。すなわち楽譜のその二に示したものがそれで隠旋に変じ、かつ速度も緩慢になっている。なおこの歌の採集は昭和15年8月20日八戸市で同町の高橋ハツさんに歌ってもらったものである。また「ナンヨ節」は野辺地地方で「おしまこ」が廃れてから流行した盆踊り歌で「アイヤ節」の変化で現在の佐渡おけさに似ている。同地の鳴海六郎氏の演唱。昭和12年9月1日採集。



盆踊り歌 陸奥国八戸市

(イ)いずれも八戸付近を中心に行われた盆踊り歌で、十二足は普通の盆踊りが十三足であるのに十二足で踊るところから出た名称、踊りの輪が足の関係で後ろ回りすなわち後退する、鮫港あたりから流行りだした移入もの。節は古甚句の変形、鴨落ちたの方は騒ぎ甚句の変形らしい。

(ロ)十二足の一と鴨落ちたは八戸市の上野翁桃氏、十二足の二は佐々木みつさん、昭和15年8月20日の採集。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。



弘前獅子舞 陸奥国弘前市

(イ)弘前獅子の由来は記録によると延喜(2333)の頃、現在松森町付近を開拓して住んでいた猫右衛門という者が所持していた慶永13年の署名ある獅子舞の巻物により、当時津軽四世信政の客臣として招かれていた野元道玄という人が城下で踊らせて見せることになり、天和2年(2342)8月15日弘前八幡宮の大祭の際に神輿に供奉、参加せしめたのが嚆矢とされるが、もちろんその時のものがそのまま伝わったわけではなく、中道等氏の研究によると獅子舞の唱歌などもその後種々改良されて今日に至ったらしい。獅子は五頭で雄獅子、雌獅子、中獅子のほかに番獅子二頭にオカシコが加わる。笛が三人、歌が三人で曲には「橋渡しの曲」「山越の曲」「女獅子隠しの曲」の三つあり、系統からはいえば南部方面の「鹿踊り」とは関係なく関東系のもので隣藩の佐竹氏領内のものと似ている。その中で本譜掲出の「山越えの曲」は津軽独特のものらしく、獅子が楽師へ祈願に山を越して行く途中その絶景の見ほれて踊るという趣向で歌入りなのは珍しい。



えんぶり 陸奥国八戸市

(イ)八戸地方でいうインブリまたはエンブリはエブリの訛りで元来は農具の名であるが、この地方では田植え踊りの芸能のことをかく呼び「エンブリ」の文字を宛てている。もっとも田植え踊りのことを「エンブリ」と呼んでいるのはこの八戸地方だけではなく、山形県村山郡左沢町の小見(413ページ参照)や伏熊の両地に残っている田植え唄もエンブリ田植え唄と称しているが、八戸地方ではこのエンブリ組が多い時には120、30組も出て互いに技を競ったということで、かつ東部にも早くから紹介されていたので、今日では「エンブリ」といえば八戸の田植え唄を意味するようになってしまった。しかしそれはたいして古いことではないらしく、菅江真澄の「一曲」に「おなじ国風俗八戸田植踊として正月興之、ヤン重朗が口上という、開口の辞なり」としてえんぶりずりの藤九郎が参った云々と歌詞をあげてあるから、この藤九郎という役人の踊る振りを形容して「エンブリを摺る」といったまでのことで、この芸能の代名詞となったのはその以後のことらしい。しかしその風俗にも踊り方にも特色があり、他地方のように早乙女は出ないので、同じ「田植踊」であっても八戸地方の「エンブリ」は別の存在のように見られている。昔は陰暦の正月15日、新暦が行われるようになってからは、2月17日から3、4日間にわたって八戸付近の各村々から15、6人ないし3、40人を一組として組織されたエンブリ組が少ない年でも6、70組、多い時には前にも記したように120―130組も出て、八戸の長者山に勢揃いして市中を煉り回るが、その中の年番に当たった組は藩主である南部氏の館に参拝しそれがすんでから各組とも思い思いに市中を練り歩くことになっていた。しかし現在ではこれらのエンブリ組も多くは滅んでしまい、去る昭和3年4月に上京して日本青年館の第3回郷土舞踊と民謡の会に出演した糟塚組、同15年2月28日放送した舘村組および同16年5月東北民謡試聴団巡察の際に出演した三戸郡階上村の平内組その他二、三に止まるに至っている。その組織は一行の中に三人か五人の頭取(烏帽子を被っているので烏帽子太夫ともいう)がいるが、その先頭を頭九郎(藤九郎)といい、左手に鋤またはならし板の柄のついたものを持ち(これが農具のエンブリを象って作ったものらしくエンブリの称呼もこれによって生まれ、藤九郎がそれを摺るようにして踊ったので、踊ることをエンブリを摺ると形容するようになった)右手には扇と手ぬぐいの畳んだものを持って歌や囃子に合わせて旋回舞踏を行う。その合間合間には数十人の少年の踊り子たちが即興的な踊りを演ずるが、これが組によって相違し、また特色ともなっている。すなわち糠塚組は三拍子で曲目は(1)摺り初め(2)恵比尋舞(3)中の摺り(4)えんこえんこ(5)お祝い(6)大黒舞(7)田植え萬蔵(8)苗取り(9)田植え(10)立端のお祝い謡(11)摺り納め(12)止めとなっており。舘村組は五拍子(1)通り拍子(2)エンブリ歌(3)松の舞(4)摺り寄り(5)止め。また階上村では七拍子で「えんこえんこ踊り」の中へ「酒田節」「さつま節」「すてな節」などというのを入れて鈴太鼓を持って踊る。その中で「酒田節」というのは出羽の酒田から起こった舟唄で、津軽の「十三節」や「砂山節」(45―7ページ参照)と同じく船で運ばれてきて海岸方面で歌われたものらしいが、現在ではその海岸地方には滅びて跡形もなく、階上村の「エンブリ」の中に取り入れられてわずかにその面影を残しているという珍しい歌である。

(ロ)本譜は昭和16年5月15日採集の階上村連中の演奏で、歌は引敷林喜松(65)氏。一は「道行」の笛譜。二と三は「摺初の歌」。四は「酒田」。五は「松の舞」。六は「すてな」。七は「お祝い」で八にはその比較研究に糟塚組の大南岩太郎(67)氏の歌った「お祝い」(昭和18年7月30日八戸市にて採譜)を加えた。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。



八戸地方神楽 陸奥国三戸郡上長苗代村

(イ)この山伏神楽は、現在は八戸市に近い三戸郡上長苗代村の矢澤、大仏、笹野沢の諸字の農民たちが寄って組織し、舘村の郷社櫛引八幡宮や、八戸湊町の郷社大師神社などの祭祀にも奉仕し、かつ正月には近村を祈祷して回っている一団であるが、八戸地方ではこの神楽のことを「権現舞」と呼んでいる。この地方にはこのほかにも三戸郡中澤村字中野、八戸市湊町字小中野に同系のものが流布しているが大同小異である。舞曲には権現舞、鶏舞、翁舞、番楽、三番、山の神舞、荒神舞、武士舞、盆舞、劔舞、傘舞の十二番に番外として龍天舞がある。楽器は篠笛(七孔ただし用法は六孔と同じ)太鼓、手平金の三種である。本書には権現舞および翁舞の囃子とを採譜採録した。

(ロ)昭和18年5月8日採集。神楽歌は同地の馬渡伝太郎、笛山本初太郎、太鼓馬渡惣吉、手平金加藤石蔵の諸氏である。歌詞提出者略。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。



さんさ踊り 陸奥国上北郡藤坂村

(イ)古来から我が国の名馬の多産地として知られた奥羽地方には「駒踊り」と称する芸能がある。五人、七人、十人、十二人と人数はところによって違うがいずれも菅笠または陣笠を被り、打裂羽織に野袴、脚絆草草履という扮装で、腰の前後に馬の作り物をつけ、笛、太鼓、手平金の囃子につれて円陣を作ったり一列二列の縦隊になったりして前後左右に跳ね回る所作を繰り返すのだが、その舞の種類には庭入り、直り駒、引き返し駒、進み駒、休み駒、横跳ね駒、三方荒神、乗り違い、回し駒などの種類があって、笛の節も違うが、見た目はみな同じようで変化に乏しく、芸として鑑賞できる程度には技巧化されていない。それかあらぬか「七つ舞」と称して薙刀、棒、刀などを持った連中が派手な衣装を着て笛、太鼓、手平金などの囃子方とともに参加して駒踊りの連中と一つ所に円陣で踊ったり別の踊りもする(ただし笛方だけは踊っては笛が吹けないので踊りの真ん中に直立したままで吹く)。この七つ舞には別に笛の手が七種あるが、だいたい聞いた感じは駒踊りと同じである。元来この「駒踊り」や「七つ舞」は神社遷宮などの祭事に神輿に追従する一種の練り芸式のものであったのがのちには独立した一つの演芸として取り扱わられるようになり、馬の産地などではその縁起を祝って例外なく演ずるようになったものらしい。しかし単に「駒踊り」だけではあまりに単調で見た目にもさみしいところから「七つ舞」をも取り入れてこれを付属舞としたので、この駒踊りを採集した上北郡藤坂村では、なおこのほかに「さんさ踊り」というのも付属舞としてある。この「さんさ踊り」は現在盛岡市付近で盆踊りとして盛んに演じられている「さんさ踊り」と同系のものらしい。

(ロ)上北郡藤坂村の「駒踊り」は毎年9月1日の村社大池神社の例祭に執行されることになっており、その人員は薙刀二人、棒二人、刀二人、旗手一人、駒乗り十人(うち四頭が親駒)で、本譜は同「駒踊り」の人々が昭和18年3月9日に明治神宮へ奉納のため上京したのを機会に録音採譜したものであるが、笛の譜はいずれも大同小異であるからこれを避け、その中で途上行進に奏する「踊り拍子」と、神社の境内に到着して勢揃いに奏する「庭入り」本踊りの中の「横跳び駒」と「乗り違い」および引き上げる時の「庭引き」との四種と、「七つ舞」の中の「薙刀」と「刀」および「さんさ踊り」の合計七種を登載した。演奏は笛 竹が原萬次郎、太鼓 小山田権蔵、手平金 小山田政栄の諸氏である。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。

(ニ)「駒踊り」が現存している地方は、青森、岩手、秋田の三県で山形県も最近までは山寺にあったが廃滅に帰した。その中でもっとも盛んなのは南部領に属する三戸、上北郡、岩手県に属する二戸郡である(岩手県のものは沼宮内のが武田忠一郎氏の岩手民謡に採集されている)秋田郡のは同山本郡荷揚場村のものをあげた(302ページ参照)。なおこの地方では起源については源義家が安倍貞任を討伐の際、陣中において士気を鼓舞するために行ったとか、義経が都落ちに際して七頭の駒踊り姿となって関所を落ちたその姿に例えたものであるとか種々伝えているがもちろん信用すべき限りでない。また三戸郡地方の駒踊りの元祖は徳川時代の初期に南部藩士の山田仁左衛門なる者が三戸郡野沢村の牛頭天王の祠を祀るために七頭の駒頭を作って踊り初めたのが最初で、各所ともこの野沢村から学んだものであるという。しかし現在では元祖の野沢村はない。



鶏舞 陸奥国三戸郡階上村

(イ)鶏舞は青森県下ではこの三戸郡の階上村にだけ伝えられている郷土演芸であるが、岩手、宮城両県へかけて北上川流域地方に繁行している「剣舞」と源を同じくするものらしいが変質に変質を重ねて今日に至っているものらしい。鶏の形をした烏帽子をかぶっているので「剣舞」を「鶏舞」と書き改めたものらしい。現在では豊年祭や八戸市の三社祭にも参加しているのは、明治時代以降のことで、それより昔は、陰暦7月の孟蘭盆に際し、墓供養に用いられたのでまたの名を「墓念仏」と称した。すなわち盆の13日から16日までの間に村の新仏のある家や年忌供養のある家から依頼され、夜分お寺へ練りこんで篝火をたいて墓の前で踊ったものだそうで、人数は舞9人、太鼓2人、笛方2人、全部演じると約1時間半はかかったということである。

(ロ)昭和16年5月15日青森局で階上村平内組の、堀切久五郎、引敷由松氏などの演唱を録音採譜したものである。

(ハ)藤井清水、町田嘉章。

(ニ)「鶏舞」の起源については、土地では奥州衣川に戦死した武蔵坊弁慶の魂を弔うために作られたものだといっているがもちろん信用の限りではない。「剣舞」には「念仏剣舞」というのがあるから、直接でないまでもその流れであろう。

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