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津軽三味線Wiki

3. 津軽民謡について

青森県 位置と行政区分と沿革 本県は本州の北端に位置し、津軽海峡を隔てて北海道(藩政時代には蝦夷地または松前と呼ばれた)に対し、東は太平洋、西は日本海、南は秋田岩手両県に接している。陸奥の国に属する弘前(明治23年市制)青森(同31年市制)八戸(昭和4年市制)の三市と東西南北中の五つの津軽郡、上下二つの北郡および三戸郡三市八郡を管轄し、県庁を青森市に置く。総面積は約9600平方キロで奥羽六県中第四位の大きさである。現在の青森県を陸奥国(岩手県二戸郡もこれに含む)と呼んだのは明治元年12月7日以降のことで、それまでは今の福島、宮城、岩手、青森を総括して陸奥と呼んでいたので長い間、蝦夷またはえみしと呼ばれ、かつその後裔で皇化に浴して俘虜と称せられた異民族が長い間勢力を奮っていた地方で、ことにその最奥地である現在の青森県下のごときは鎌倉時代に至って安倍貞任の後と称する安東氏が津軽地方に勢力をほしいままにするまでの歴史はほとんどわかっていない。平安朝の初め延暦年間(1442―53)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけ北郡や津軽の端までも討伐の手を差し伸べたという伝説のごときも要するに浮説にすぎず、その際は今の岩手県まででそれ以北にはおよび得なかったということである。のちに源頼朝が文治5年(1849)俘虜長として数代の栄華を誇った藤原泰衡の一族を滅ぼした時に、これにしたがって大功をたてた甲斐国南部庄の地頭職南部三郎光行(―1875)が頼朝から糠部、九戸、閉伊、鹿角、津軽の五郡を賜り三戸に城を築いて統治することになったのが南部氏の起こりであるが、子孫相継いで明治維新に及んだ。 ​ ​ なおこの光行には六男があり、長子行朝は妾腹の出であったので一戸に分家し、次子の実光が二代の家督を継ぎ、三子実長は八戸に分家、四子宗朝は四戸へ五子 行連は九戸、六子朝清は七戸へそれぞれ分家した。ただしこれらの支藩にも後代に及んで消長があり、八戸家四代の師行(―1998)は勤皇の志厚く、八代の政光に至る間南朝のために傾倒するところが多かった。後二十二代の直義の代になって寛永4年(2287)閉伊郡遠野へ一万二千石で移され、八戸へは後に本家二十七代利直の七子直房が寛文4年(2324)から分封され、この子孫が八戸藩として明治に及んだ。現在遠野地方に残っている「田植踊」その他の芸能が非常に八戸地方のものと共通しているのは藩主の移住に伴って領民の交替が行われたためかもしれない。また七戸藩は藩祖の朝清が封じられて以来の系譜はつまびらかではないが、本家二十九代重信の次子政信が元禄7年(2354)に父から新田5千石を分知され、さらに支藩五代の信邦の世になってさらに6千石を加増城主格となったところを見ると、それまでは中絶していたのかもしれない。この子孫が相継いで七戸藩として明治に及んだ。また明治維新の大政奉還の勅命に抗して破れた会津の松平氏が同3年に下北半島の田名部に国替えされて斗南藩と称してわずかに余命を繋いだのがいずれも同4年7月に八戸県、七戸県、斗南県となり、同年9月には弘前県に合併され、さらに県庁が青森に移るに及んで青森県と改められたのである。また平安朝末期から足利時代へかけて津軽に雄飛した安東氏の祖は安倍貞任の一子高星で、父貞任が源頼義に討たれた時には幼くして乳母に抱かれて津軽に逃れたが、のちに長して藤崎城(今の南津軽郡藤崎村)により安東を姓として大いに威を振るい、その一族秀栄の代になって嘉應文治(1829―46)の頃には十三港に福島城を築いて津軽六郡を領した。現在この十三湖の周辺にある北津軽郡相内村に行われている盆踊りの「ナオハイ節」(44ページ)のごときはすこぶる古調わすべきものがあって安東氏時代のものではないかと考えられる。 ​ ​ この安東氏は常時蝦夷地をも合わせて上国(今の江差地方)下国(今の松前地方)を支配していたが高星の八代の孫盛梨の代になって、南部14代の義政の攻略に会い、嘉吉3年(2103)津軽を追われて蝦夷地に亡命するに至った。しかし、其の後蝦夷地でも属臣の武田信広が勢力を得たため、一族合同して出羽の秋田に逃れ秋田姓を名乗るに至った。現在津軽地方にはなく岩手県の南部領だけに残っている「御祝」(116、120ページ)の歌詞「ゆるゆるとお控えめされ十三から船の着くまで」とか「松前は名勝どこ、諸国の船はみな着く」というような歌詞が今まで継承されるのは、この歌の発生経路を物語るものというべきで、安東氏が津軽、蝦夷地領有時代の栄華の痕跡と見ることができる。かくして津軽は南部氏の有に帰して数代を経る中に23代安信の天文年間(2192―)以来これに従わぬ者が出てきたので舎弟高信を石川の大仏城(今の南津軽郡石川村)に置いて統治せしめている中、その配下に属していた大浦為信が元亀2年(2231)5月決然立って高信を殺してこれを奪い、姓を津軽と改めてこの地方一帯を横領するとともに、南部勢力の反抗を退け、さらに一方には常時中央にあって天下統一の偉業を着々と進めていた豊臣秀吉に通じ、天正18年北条征伐のため小田原へ出陣中の秀吉に謁見して津軽領安堵の保証を得るなど外交的手腕を用いて南部氏の先手を打ったため、さすがの南部氏もいかんともすること能わず、泣き寝入りとなった。かくして津軽氏は二代信牧の慶長16年(2271)に弘前に築城して移り、明暦2年(2316)には信牧の次子信英を黒石に分知して支藩たらしめた。そして子孫継承して明治に至り、廃藩置県に際して弘前、黒石ともに一旦県となったが、さらに南部の七戸、八戸県などとともに青森県に合併された。



​地理と風土的特徴 まずその一般的な輪郭としては、東に下北、西に津軽の両半島が陸奥湾を抱いて凸字形をなし、その東西北の三方を囲む海岸線の延長700キロに及び、本土の背骨をなす奥羽山脈が中央を南北に縦断し、其の上に那須火山系に属する八甲田群(最高1550メートル)や恐山(700メートル)が噴出し、また西部には鳥海火山系に属する岩木山(1625メートル)が聳え、その秀麗なる山容は津軽富士の名に呼ばれるにふさわしい。河川と平野は西部秋田との県境矢立峠に発源して北上し十三潟に注ぐ岩木川(流程90キロ)は必ずしも大河とはいえないが、その流域に展開する1000平方キロの沃野はいわゆる津軽米の産地となり、これに対して東方には岩手県九戸郡に発して北流し八戸付近で海に入る馬淵川や、十和田湖から東流する奥入瀬川などの流域には950平方キロの隆起海岸平野が存在するが、中には小川原沼のような非隆起の開拓の進まない沼沢地も残されている。また中央部には青森市を中心とする駒込、荒川の両河に沿った170平方キロの青森平野があり、農耕が拓けてはいるが奥羽山脈に近くにしたがって乾燥した洪積層の大波状原が展開して牧養地として利用されている。 ​ 気温は一年を通しての平均9度で、1月が最も寒く、8月が暑く、快晴30日、降水217日、酷暑の頃でも朝夕は常に冷気を覚え残暑と余寒はむしろ激しい方で積雪も丈余に達して往々軒先きを没することがある。また東海岸を流れる親潮(寒流)が時として寒冷の北東風を送って農作物を害する。この風は吹き出すと長くなるので、三厩あたりでもヤマセ7日吹かねば止まらぬという俗諺がある。この西の津軽方面では冬季になると日本海を隔ててシベリア大陸に発生する高気圧の影響で西の季節風が吹き漁業に難を与える。したがってこの自然的制約は住民の生業にも影響を与えないはずはなく、東方の南部三戸と西方の津軽五郡とはおおよそ同等の面積ながら、農業戸数は南部が4割、津軽が6割に対して、漁業戸数は南部の6割5分に対して津軽が3割5分の比率を持つ。なおこの南部と津軽住民との対立はその気風の上にも現れ、津軽人は進取的であるが、一面軽佻浮薄で移り気なところがあり、また南部人は保守的で鈍重であるが、律儀なところがあるという。この相違は平生好んで歌う歌の節にも現れ、津軽人が「よされ」「じょんがら」「小原」のような派手な歌を喜び、それも次々と新手の新しい節回しを工夫して変化せしめているが、南部人は「ナニヤトヤラ」のような正鵠のわからない歌をそのまま古格を守って飽きもせず今日まで歌い続けているのである。



​交通路の今昔とその変遷 藩政時代にあっては今の奥羽6県が総括して奥州、出羽と呼ばれた中でも青森県は一番北の果ての僻遠の地であっただけに道路なども開けず、陸上交通は不便であったらしい。徳川幕府が交通政策上の重要施設たる5街道の中の奥州道中は江戸千住から今の北津軽郡の北端三厩に至るとしてあるが文化8年に道中掛から勘定方へ提出した書状には千住から今の福島県の白河までとしてある(経済学大辞典)。いずれにせよこの道路は奥羽各地の大名の参勤交代が主なる利用目的になっていたのだから、白河以北は幕府の管轄外にあったのかもしれない。しこうして八戸、七戸藩はその宗藩の居城たる盛岡を経由してこの奥州道中を上下したのであり、津軽、黒石藩に矢立峠から国超えをして秋田の佐竹領を通過出羽路を上下した。また蝦夷地の松前氏も津軽領三厩に上陸してから青森まで奥州道中をさらに弘前に出て出羽を経由して江戸に入った。すなわち現在の鉄道経路でいえば南部藩は東北本線を、津軽、松前藩は奥羽本線に沿って往来したことになるのである。なお明治7年に刊行された「日本地誌提要」に掲げてある道路は徳川時代中期から明治までの主要道路を示したものにして興味深いが、それによるといわゆる奥羽道中に属するものとしては 三戸―浅水―五戸―尊法寺―藤島―三本木―七戸―野辺地―小湊―野内―青森 となっていて、藩政時代には野辺地止まりで南部藩唯一の西回り航路の発着地である野辺地と城下盛岡とを結ぶ重要道路であったに相違ないが、明治24年に鉄道東北本線が青森まで敷設された時には三戸から野辺地までの間は、この道路によらないで東方を迂回した。また野辺地からは佐井道が分岐し 野辺地―有戸―横浜―中丿沢―田名部―関根―大畑―下風呂―易国間―大間―奥戸―佐井 とこれから海路函館へ渡るのである。この道路に沿っても鉄道大湊線が大正10年に大湊までで、さらに昭和15年田名部から大畑まで大畑線が敷設された。また田名部から佐井へ行くには西回りの別道もあって 田名部―大湊―城沢―川内―檜川―宿野部―蛸崎―小沢―脇ノ沢―九艘泊―牛滝―福浦―長後―佐井 で佐井から函館までは海路直径12里8町で青森、函館の現航路よりは16里10町も近いので藩政時代における南部方面の渡道者はみなこれによったが、明治以降青森に鉄道が開けて青函経路の起点となるに及んでその繁栄を奪われてしまった。また三戸から八戸へ行くには 三戸―劔吉―苫米地―櫛引―八戸 の道路があり三戸からさらに西へ分岐する花輪路は 三戸―田子―関―大湯―毛馬内 に道路が通じ関と大湯間の莱満峠には関所が置かれていた。鹿角方面の鉱業地ではこの街道によって魚類の供給を八戸から仰いだが、これにしたがって酌婦の売買なども密かに行われ番所役人に賄賂を使って、この地方では魚の方言をダボというところから女の乗り物をダボと称して関所を通過せしめていたので酌婦のことをダボと称するようになったという。「莱満節」(284ページ)と称して鹿角地方一帯に歌われた「甚句」はこの八戸女がもたらしたものなのである。なお八戸から海岸沿いに北上して田名部に至る道路もあるがこれは略し、津軽方面では佐竹領(秋田県)の白澤から北上する羽州街道(これは明治になって名付けられた)として 白澤―碇ヶ関―石川―弘前―藤崎―浪岡―新城―青森および弘前から鯵ヶ沢に至る 弘前―高杉―十腰内―浮田―鯵ヶ沢 および青森から三厩に至る松前街道(奥州道中の一部) 青森―油川―蓮田―蟹田―野田―片館―今別―三厩 の三道路は津軽藩が御城下弘前と所領内とを結ぶ重要道路であった。 ​ すなわち弘前を中心として北は青森港に南は矢立峠を越えて秋田佐竹領に入る道路は現在奥羽本線(明治37年開通)が縦走しており、弘前、鯵ヶ沢間はこの道路とは離れて五所川原、木造を迂回し、鯵ヶ沢からさらに海岸線を延びて深浦を経由、出羽の能代に連結する五能線(昭和11年全通)が設けられ、また弘前と黒石支藩との間にも大正元年以降黒石線が通じている。そして現在では東の東北本線(主として東京方面)と西の奥羽本線(主として関西方面)の二大鉄道幹線が東京、京阪地と奥羽、北海道を結ぶ交通要路となっているが、藩政時代にはこれと反対に海上における西回り東回り航路(243ページ)がこの役を務めていたのだ。津軽地方には蝦夷地や北陸方面との交通のためにすでに安東氏の時代から十三潟、小泊、三厩などの諸港が開けていたが、津軽氏の所領に帰してからは二代信牧の寛永2年(2338)には鯵ヶ沢港を開いて前者は東回り、後者を西回り起点とするほかに深浦および油川を加え藩の七要港とした。 また南部藩において国外から京、大阪方面への移出物資は古くは鹿角領から米代川を船で出羽の能代へ送り、ここから西回り船に積んだが、野辺地港を開いてからはここを西回り航路の起点とした。また江戸への物資輸送は仙台城主伊達政宗が元和年間に東回り航路を開いてから後、八戸支藩では寛文7年(2327)以来鮫港から米や大豆を随時江戸へ送り出したということである。なお南部領の三戸、北郡所在の湊の至浦で正保2年の地図に記載されているのは鮫(三戸)泊、野辺地、横浜(以上上北郡)大畑、大間、奥戸、大平、九艘泊(以上下北郡)などで、その中でも佐井は函館への直接連絡港として藩政時代には商家、妓楼が軒を並べすこぶる繁盛していたという。「奥南盛風記」によると元禄11年8月19日暴風があって多くの難破船、死傷者を出したが、その被害船の中に佐久島船(三河幡豆郡)、三河船、仙台船、江戸船、尾張船、伊勢船、越前船、津軽船、能登船、兵庫船、宮古船(陸中下閉伊郡)などの名があげられているのを見てもいかに多くの諸国の船が集散していたかがわかって面白い。こうして海を通じての港の船の往来、物と人との出入りに対してまず求められたのは酒と女と歌とであったろう。酒田節、アイヤ節、二カタ節、三下り、じんく、護良節、広大寺などいつの時代からの俗謡、はやり歌が錯綜交流して行われている中に、ある者はその土地独特の節回しに変化、改良されてその土地の歌として継承されるに至ったのである。特に「アイヤ節」(30、31ページ)のごときは津軽、南部南地方に共通して歌われている中にいつしかその節回しに差異を生じて、その楽譜に見られるような変化をきたした。この歌などは津軽人と南部人との音感覚の上の趣味性の相違がよく現れている例として誠に興味ある資料たるを失わない。



生風景と作業歌との関係 現青森県の産業は藩政時代から米と林業と牧畜とがその最たるものであったが現在においてもこの伝統は保持されており、農業が最大主要産業で県経済の半分以上これによって賄われているといってよい。米は地勢、地味の関係もあって津軽地が南部地に比して約3倍強の収穫がある。しかしこの津軽平野1000平方キロの沃地も自然に放置されたままに存在しているのではなく、津軽家代々の開墾の苦心の賜物なのである。津軽氏は元祖為信の創業のあとをうけて2代信牧が植林、開墾に手を染めたが、4代信政に至って貞享年間(2344―)岩木川の改修と築堤工事と新田開発、および日本海方面から吹き寄せる季節風の暴威を防ぐための植林事業などの施行によって興毅した村が二百数十ヶ村、米の増収が二百数十ヶ村に及んだという。この頃西津軽方面の新田開墾のため秋田方面からの出稼ぎ人に歌われたものが「秋田節」(35ページ)すなわち今の津軽音頭であったという。なおこの信政の時代はいわゆる元禄の経済的変調の時代で、信政の殖産興業の努力にかかわらず藩の財政は次第に窮迫し7代信寧の代には凶作相次いで起こりついに破綻に瀕するに至ったので分限者からの用金徴発、家中牛和制、貸し借り無差別の徳政を断行してようやく危機を脱することができたものの、この非常時家督を受け継いだのが8代信明で自ら勤励力行を垂範、廃田の復興備荒貯蓄制度の確立に邁進したが惜しむべし年齢わずか30歳で病没したものの津軽家中興の祖として後世松平楽翁、上杉鷹山とともに東北の三大名君と称された。この信明の志を受けたのが黒石支藩から入家した9代寧親で、最も新田開墾に意を注ぎ、享和から文政に至る約30年間に立村28、新田加増38000石を収めた。津軽藩の当初の知行は45000石であったが文化2年に70000石に加増、さらに同5年に10万石に昇進したのであるが、その実収は四、五十万に達していたと推定された。これが明治時代に引き継がれてから金納制度になったため農家において収量多きを望んだ結果、品質が一時下落したがその後改善されて今日に至っている。この津軽米に対して三戸、上北郡方面の産米は品質もこれに劣っており、この方面ではむしろ粟、稗、蕎麦などの雑穀の栽培が多い。「田植え歌」はかつては津軽地方には各地に歌われたものらしく「里謡集」には中津軽郡の歌詞の採集があるが現在ではその曲節は絶えていずれの地にも聞くことができないが、西津軽郡の木造地方で明治の中期頃に歌われたものは幸い同地出身の館山甲午氏の記憶にあったので本書に収録することができた(11ページ)。 ​ 歌詞もなかなか変わっていて面白い。南部領方面には作業としての田植え唄はなく、田植え踊り系統の門付き歌が残っている。「田の草取り」の歌は津軽方面では「ホーハイ節」(13ページ)を用いたらしいが、この歌は盆踊り歌としてもまた稲刈り歌にも運用されたらしく「里謡集」には東津軽郡の稲刈り歌として「婆の腰やほはいほはい」云々と記してある。なおこの歌のヨーデル式唱法はアイヌのエフンケイと一脈通ずるものがあって研究の価値がある。また三戸郡方面の「田の草取り歌」(12ページ)は主として粟や稗の場合に用いられたらしく同地方の郷土歌ともいうべき「ナニヤトヤラ」の最も典型的な形態の変化である。臼歌(14−15ページ)は南部領の方には籾摺、粉挽などに歌われ、現在でもその曲節は残っているが津軽方面では歌われた形跡がないのはむしろ不思議である。蕎麦は地勢および気候の関係で南部地方に少量の栽培があるのみ、大豆は現在ではそう生産の多い方ではないが品質の良好をもって知られ、藩政時代には南部から大阪、江戸方面へ出荷している。リンゴは日本一で全国総生産額の半ば以上を占めているが歴史は新しく、明治7年にアメリカから種木を持ってきて植えたのが初めというからしたがってみかんや柿における「もぎ歌」「えり歌」といったようなものはない。次に農産工業品としては津軽藩では4代信政の代に桑、漆、椿、柿、茶、紅花、麻、芋、藍、薬草に至るまで栽培を計ったが風土の関係で必ずしも成功しなかったが、漆の栽培は絶えず行われた結果として津軽塗りのような名物漆器が現れた。また養蚕製織の術は信政が京都から招聘した野元道玄によって割策されて国内需要に応ずる価値をあげたが、以上の諸種家内工業における作業歌が歌われたかどうか今は少しもわかっていない。次は林業であるが、これは津軽、南部両藩ともに力を尽くした。すなわち津軽家では2代信牧の慶長寛永(2256―2303)頃から植林に手を染め4代信政の代には一層林政を整備し杉、檜、柏、栗などの増殖を計り、また南部藩でも森林保護と植樹奨励には意を用いたので山岳の重畳する津軽の東北南の三郡や下北郡は鬱蒼たる森林に囲まれている。この林業と平行して牧畜も古い歴史を持ち、ことに産馬は南部藩において三本木原を中心とした上北、三戸が古来から有名な南部馬の産地で、馬匹の改良とその保護、奨励とは藩祖光行が建久年間に入国以来の伝統的政策であった。 ​ ​また津軽でも2代信牧の時代に津軽坂、雲谷、入内、滝沢、枯木平の五ヶ所に牧場を開き、弘前には馬市を開いて他領民との売買交換を許したが、この精神は今日にも引き継がれ、奥羽における随一の馬産地として自他共に許されている。また水産は陸奥湾には鱈、ナマコ、帆立貝、また鰰は日本海方面から津軽海峡を経て太平洋方面一帯に漁獲され産額の最も大きいものでこれに次いではイカで、これには一番スルメ、二番スルメ、水イカなどの種類があり、漁場は下北郡が最も多く、東北津軽郡がこれに次ぐ。マスやカツオは太平洋岸の上北、三戸郡方面が本場である。津軽領方面には漁労に関する仕事歌というものは何も伝わっていないが、奥南下北郡の尻屋岬付近のイカ船の漁師の歌う「沖節」というものは宮城県の「遠島甚句」のくづれであるのも面白く、この沖節が遠島甚句系艪漕ぎ歌の北限界をなしているわけである。また八戸付近では明治になってから俗謡の「よいよなか節」と津軽の「よされ節」をもじって「大漁歌」(28―9ページ)として歌ったことがある。



​社寺芸能と囃子と踊り唄 この社寺に関係した芸能や盆踊りのようなものは津軽と南部とは全く分布を異にしている。たとえば「山伏神楽」のような楽舞は津軽地方には全然行われていなかった。本田安次氏の研究によると青森県でこの「山伏神楽」(この地方では権現または獅子舞という)の残っているのは八戸市内の小中野と三戸郡中澤村字中野、同郡田子町、上北郡横浜村字檜木、同吹越、下北郡東通村字目名、同白糟に分布しているとのことで、同氏はこれを地域的に分類して、「九戸風」と命名している。本書には三戸郡上長苗代村に伝承されている「権現舞」を収録した。この楽舞は現在では同村の松本嘉太郎翁(72)を中心として矢澤、大佛、笹野沢各所の有志によって組織され、郷社櫛引八幡の5月15日の例祭に奉仕しているという(66―7ページ参照)。この権現舞は付近の小中野や中野、田子のものや北郡方面のそれと伝承の経路がどんな関係にあるのか不明だが以前は修験者たちの管掌に属し、毎年霜月頃になるとこの種の修験者が組組に分かれて権現の獅子頭を奉仕して火伏せや悪魔払の祈祷に村々を周り、これを「まわり神楽」「通り神楽」または「門打ち」と称し、その泊まり泊まりの民家の一室を舞斎にあてて幕を張り注蓮をめぐらし、大勢の村人を見物人として一晩に12幕くらいの舞曲を演じ、その翌日宿を立つ時には「神送り」と称して家中の人々を集めて特に入念な祈祷を行い、新築の家には柱がらみの祈祷を、また仏の年忌に招ぜられては墓獅子を舞った。これらの宿は定宿になっているところもあるが、村によっては輪番になるところがあり、あるいは講を結び、講がこれを指定する。要するに山伏としては祈祷をして歩くのが根本目的ではあるが、余興的にこれらの舞曲を演ずることによって一層村人の歓心を買う方便たらしめたわけで、今日のようにラジオ、蓄音機、映画というような何一つの娯楽を持たない農村において、特に冬の訪れの早い奥羽地方では老いも若きもいかにしてこの権現様の訪れを楽しみにして首を長くして待っていたかは想像に難くないのである。 ​ ​これに対して津軽地方に行われたのは関東系の「獅子舞」(59、60ページ)で、これ以外の山伏神楽系統の獅子舞は例えば隣国の秋田領山本郡方面には「番楽」という名で各地に行われているのに対して津軽領では全然行われた形跡さえないのは不思議である。また南部、伊達、最上領地方では盛んであった初春の農耕行事としての「田植え踊り」は「えんぶり」(61−5ページ)という名で八戸市を中心とした三戸郡地方で今なお盛んに行われているが津軽地方には残っていない。もっともこれは菅江真澄翁の「一曲」には津刈の田歌として歌詞の採集があるから以前には行われたこともあったらしい。鹿踊りも現在では南部津軽両地に絶えているが前記「一曲」には津軽の鹿踊りとして歌詞が記載されている。また現在の岩手県地方で盛んな「剣舞」は三戸郡階上村地方に「鶏舞」(72−3ページ)と記されて残っているのが唯一のものらしい。また「駒踊り」は現在ではこの青森県と岩手県の南部領と秋田県の鹿角山本郡方面にしか行われていないが元来は神社遷宮などの祭事に神輿に扁従した練り芸式のものが独立した芸能として行われるに至ったもので、本書提出の上北郡藤阪村(68―71ページ)のもその一つである。盆踊り歌はそのすこぶる古風なものを伝承しているのとかつ種類の多い点では全国でも有数である。まずその古いのと珍しい点では南部領の「なにやとやら」(53−5、127ページ)と津軽領の「ナオハイ節」(44ページ)とであろう。「なにやとやら」の発生については種々の説があるがいずれも信を置き難いがとにかく非常に古い時代からの伝承であることだけは確かで、それも初めは盆踊りの歌だけではなく、祝典祭儀、仕事とあらゆる場合に歌われていたと思われる。また「ナオハイ節」は津軽氏よりはさらに一時代前の安東氏時代からの伝承らしく、おそらくは北条足利時代の宗教的歌謡から変化したものと考えられる。この歌が現在歌われているのは北郡の相内村であるが昔安東氏の居城であった福島城に近いところで、常時の開港であった西郡の十三には別に「十三の砂山」(45−7ページ)という盆踊り歌が伝えられているが、この方は「ナオハイ節」のような古い時代のものではないが江戸時代になってから出羽の酒田から移入してきた舟歌の「酒田節」の変化したもので、なおこの歌は南部方面へも入って三戸郡階上村の「えんぶり」の踊りの中に「酒田」(62ページ)として組み入れられている。また津軽一帯に盆踊り歌としても田植え唄としても歌われた「ホーハイ節」(13ページ)も極めて珍しい特色のある歌でその発声方法はアイヌ人の歌うエフンケイによく似ている。


さらにまた越後方面から船で運ばれてきたという鯵ヶ沢地方の「甚句」(52ページ)は木造、五所川原方面にまで歌われ、同地方の人々は従来行われていた「ホーハイ節」よりは品がよいとして喜んだということであるが、この歌は徳川氏の元禄年代に播磨地方を中心に大いに行われた「兵庫くどき」「海老屋甚九郎節」の亜流で現在でも西日本方面の盆踊りクドキといえばほとんどこの系統に属するが、奥羽地方では「兵庫くどき」系統の歌としてはこの「鯵ヶ沢甚句」だけなのも珍しく、そのほかのクドキといえばいずれも越後の「新保広大寺」くずしのクドキのみである。なおこのほかの盆踊り歌としては津軽方面に「奴踊り」「どだらば」(以上48ページ)「黒石よされ」(49ページ)南部方面では「ナニヤトヤラ」の分派と思われる「おしまこ」(56ページ)「十二足踊り」「鴨落ちた」(58ページ)「ナンヨ節」(57ページ)がある。



奥羽民謡歌詞考


民謡の曲節が時代とともに変わっていくように歌詞も次から次へと新しいものが作られ古いものが忘れられていく。現在奥羽地方で歌われつつある歌の歌詞はいつ頃からのものであるか、もちろん的確にはわからないが、この地方には今から百五十年ほど前に菅江真澄という危篤な文人が庄内、秋田、津軽、南部、松前までも遍歴して「一曲」という貴重な採集記録を残して置いてくれたので、これを現行のものと比較してみるとなかなか面白い事実が発見される。まず第一に気づくことは現在「田植え踊り」が残っているのは福島、宮城、岩手、山形の4県に、青森県には八戸、七戸地方以外には影も形もなくなっているが「一曲」によると外南部(北部)や津軽、秋田地方にもあったことが知られ、また「鹿踊り」は現在は宮城、岩手の2県だけで、福島、山形、秋田、津軽には関東系の三斤ささら獅子また山形村山地方には両者の混合したものが存在するが、津軽、秋田にも「鹿踊り」が行われていたらしい。津軽、南部の十五七節(山歌)は今もその頃もだいたい同じであることも懐かしい。次に久保田(秋田)の「田植え踊り」の歌詞に「それはめでたやござ見れば、黄金、銚子、七銚子、お祝いがしげければ、お壺の松がそよめく」とあって岩手県地方の「お祝い」との連絡が考えられるが、秋田氏の祖はかつての津軽の雄安東氏で、その伝統を残しているのかもしれない(212ページ参照)。またもう一つの歌詞「苗の中の鶯、何と何とさえずる、ゼニ蔵、かね蔵、こがね蔵、秋田繁盛とさえずる」というのは現福島県の「田植え唄」(431ページ)「大蔵さまから斗酒を添えて俵つめ」と大同小異である。


特に珍しいのは南部斯波稗貫和賀(現岩手県)の米踏歌で、それによると早朝、朝飯後、昼飯後、晩及暮と、それぞれ歌う歌詞が違っていることで、この事実は作業の歌が単なる労働の統一と慰労のため許りでなく、神にその仕事の助力加護を祈願して勧奨し、その神徳を讃える信仰心の発露と解され、今日までは中国地方の「田植え唄」や「たたら歌」九州地方の「木下し歌」にその類例が見られていたが、関東地方の土橋の「木遣歌」(関東編272ページ参照)や、この「一曲」記載の臼歌の歌詞存在によって、ほかのあらゆる作業の歌も、その発生当時には時刻による歌詞の選択というタブーが守られていたという想像がつく。なおこの臼歌の昼飯後に歌われる歌詞の「目を見れば八つに下る、麦を見ればから麦、刈ると麦を七日まいて、お手に豆が九つ、九つの豆を見れば、もたぬつまのこよしさ」と現に稗貫郡で歌われている「始めて唐白(91ページ)」と比較してみると面白い。また津軽に鉱山の金掘り歌や凧揚げ歌のあったこともわかるが、今はなく、低俗な「じょんがら」「よされ」一色に塗りつぶされている。南部領鹿角地方の「大の坂」もほとんど忘れられていたが、最近その断片が発見された(263ページ参照)。しかもこれと同じ歌詞のものが閉伊郡の宮古地方に7月踊りとして存在していたことも昔話となった。なおほかにもその片鱗を残したものは相当に存在している。



子守唄(その一)陸奥国弘前市


その一は主として弘前付近で歌われている節で南津軽郡富木村出身の篠崎正氏に演唱をこうて採譜したもの、その二と三は青森県立師範学校付属小学校唱歌研究室で採譜されたもので青森市近傍のものである。その一と三は元来は同じものであろうが地域によってこの程度の相違はある。


代掻歌(その一)陸奥国八戸市

南部領に属する三戸郡地方の代掻歌で、この辺の農家では多く馬を使用する。その方法は挿絵のように馬の顎のところへサイセンと称する長さ6尺くらいの棒を取り付け一人(これをサイ取りという)は馬の尻についていて巧みに馬鋤を操縦していく。すなわち馬鋤取りが主人ならサイ取りには女房が当たり、掛け合いに歌を歌いながら仲良く仕事を進めていくのである。しかし現在では全く歌われない。

その一は八戸市の上野翁桃氏、その二は三戸郡下長苗代村の在家たねさんの演唱で昭和15年8月20日八戸市での採集。

町田烹章、藤井清水。


田植え唄(その一)陸奥国西津軽郡木造町

津軽地方の田植え唄は現在では全く滅びて採集できなかったが、本書に収録したその一は明治の作曲家館山漸ノ進翁の嗣子で明治21年に西津軽郡木造町で生まれた甲午氏が少年時代に同地方の農民が歌っていたのを記憶していて採譜されたものである。なおまた「里謡集拾遣」には中津軽郡のものが記載されているが詞型から判定するとこれとは別のもらしい。その二の方は実際の作業に歌われたものではなく三戸郡の北川村、名久井村で毎年正月16日に村娘が五人くらいそれに中老の女も加わって一団となり田植え踊りをして各戸を回り合力を受ける風習があり、その時の歌であるが、明治の末期に路上取り締まりによって警察から禁止されて以来行われなくなり、歌だけが残ったものである。これは昭和15年8月20日八戸市で下長苗代村の在家たね氏の演唱を録音採譜したものである。

町田嘉章、藤井清水

その一の詞型は五七五、七五、七五という変わったもの、その二は普通の七七七五で岩手県方面の「田植え踊り」の歌詞と共通している。


南部領八戸地方で稲田、稗田または粟畑の草取りに歌われたものであるが、これはこの地方に古くから歌われていた「ナニヤトヤラ」の変化したものである。元来「ナニヤトヤラ」の字音数は五七七調が元で、後に本曲のような七七七五調のものが作られ、また曲態も羽音終止という珍しい旋律型から徴、宮、商音に終止するものが派生していったので、したがって七七七五調の歌では徴音終止のものが多いのにこの「草取り歌」だけは古態のままの羽音終止である点が珍しい。なおこれについては「ナニヤトヤラ」(53―5ページ)の条を参照されたい。

上長苗代村の小笠原すえさんの演唱。


ホーハイ節 陸奥国青森市

もし日本民謡曲中での特異番付を作るとすれば、まず東の横綱として扱うべきものはこの津軽の「ホーハイ節」であり、西の横綱は南部の「ナニヤトヤラ」で、しかもこの二つの歌が青森県の東西両端に相対峙しているのも面白い取り合わせというべきである。しからばこのホーハイ節がいかなる点で特異であるかというに、まずその歌詞においてホーハイというはやし詞とも呼びかけ声とも呪文とも解釈のつかない挿入句があり、しかもその唱法がほかの日本民謡にはあまり類例のない「裏声」ヨーデルを使用する点で、それは吸息と吐息とを交互に利用するのであるが、この種の唱法は筆者が昭和15年8月下旬の第二次奥羽民謡採集旅行に際して、秋田県鹿角郡毛馬内町(南部領)で発見した「土橋歌」(228ページ)がやはりホーフエーホーフエーと裏声を使用する点から考及して同郡宮川村字湯瀬地方の「湯瀬村コ」がやはりこの系統の歌であることを知ったので、往古には相当広い範囲に行われていたであろうことが想察されたのである。ただこれについて「津軽口碑集」に記載されてあるようにアイヌ歌謡を真似たものである、という説については、柳田國男先生や折口信夫博士は容認されておられないし、アイヌの歌謡についてなんら研究のない筆者においては、なおのこといかにも解釈の下しようがなく、頰かぶりですますよりほかはないのであるが、ただ音楽上の立場から、裏声式発声法の歌は以上あげた二つの曲以外には今日まで我等の手には日本民謡中に発見されていないということ、またかかる発声法の歌はアイヌの歌謡に多い、ということだけを記して、これを後代の研究者の研究の手に委ねたいと思うのである。なおこのホーハイという字音については大藤時彦氏が「民間伝承」8の11(昭和18年3月発行)にホーハイもしくはこれに似たホーホー、ホイホイ、オイオイ、ヒョウヒョウという一種の呪文的な叫び声が沖縄、石垣島、壱岐、五島そのほかの地方に存在することを発表されていることは面白く、津軽のホーハイもこの種の叫び声に端を発したものかもしれない。いずれにしてもこれらの唱法が津軽のホーハイ節のように吸息と吐息とを交えた裏声法発声法であるかどうかということが分かれば、その系統や分布状態もあるいは案外早く解決がつくのではないかと思うのである。なおこのホーハイ節の起源は天正の昔津軽藩主為信が、東津軽郡油川の郷士奥瀬善九郎の討伐に向かい、戦利あらず引き上げに際し、士気を鼓舞するために歌った(東北の民謡)と伝えられ、ホーハイの字音に対して「奉拝」「穂生」の文字をからめて説明しているが、もちろん牽強府会な俗説で、この歌はそんな上品ぶったものではなく、むしろ野生そのままの鳥の叫び声にも似た発声そのもので「田の草取り」や「盆踊り歌」として歌われた。またこの歌の詞型が八八字音で一連をなしている点もほかの奥羽民謡にない特例である。

青森市の成田雲竹氏が昭和の初年に吹き込んだ鶯印レコードS1006Aから採譜したが、現在ではこの歌はほとんど同氏の独壇場である。


三戸郡の臼歌

(イ)三戸地方に行われた臼歌を一括して示した。発生的順序からいえばその一の米挽き歌が一番古いらしい。米挽きは玄米を精白する作業だが、この地方では明治時代以前は白米を常食としていたのではなく、いわゆる食物としては稗、粟、蕎麦などが主であったから、玄米の精白作業は祭日などの晴れの場合に限られ、平素は稗や麦の脱穀作業として歌われ、縦臼もしくは横臼を用いて二、三人で挽いていたのである。イの歌詞の五五、七五調のものがその当時からの詞型であるが、その後酒屋の米挽き(これには地唐臼が多く用いられた)にも歌われるようになってロ以下の七七七五調の歌詞が新しく生じた。すなわちロの歌詞がイを模倣して作り替えたものであることは明白である。また曲節においても字音の不足分を縮めて歌っているが、かくして民謡の詞曲態が漸次成長変化していく姿が見られて面白い。その二の籾摺りはこの地方でいうスルシ挽きで摺臼(初めは木臼次いで土臼)で籾を挽いて玄米にする作業であるが、摺臼作業を歌った歌詞は一つも存在せず、米挽き歌の歌詞をそのまま流用している点から考えて米挽きよりはずっと後で歌われるようになったものらしい。この方は七七、七七調である、その三の粉挽き歌はすなわち石臼挽き作業で主として蕎麦粉を挽く時に歌われたから「蕎麦挽き歌」とも呼んでいる。この歌にも仕事そのものを歌った歌詞は存在せず「山歌」や「盆踊り歌」と共通しており、特に盆踊り式の反復がついている点などから考えて、ほかの歌を転用したものらしい。

(ロ)「米挽き」と「籾摺り」とは小笠原すえ氏「粉挽き」は在家たね氏の演唱で昭和15年8月20日の採集。


天保頃の八戸

舟遊亭扇横という江戸の落語家が天保の末年に奥羽を遍歴して書いた旅行記に「奥のしおり」というものがあるが、それによると天保13年の5月13日から27日まで八戸に滞在している。その記述の中の二、三を拾うと「八戸ことのほか魚類たくさんにて目の下一尺くらいの鯛150匁くらいにて、鮫などは一文に十くらいにて候」「港は城下より一里、遊女屋敷数多くあり。ここの遊女屋みな後家にてお家中または町家の富家の世話に相成り候、それより佐女(鮫)と申すところへ参り候、これにも遊女屋12軒あり候」「港は網を引き油を絞り申し候ところにて魚油御役所あり申し候、ここには芸者と申すはなき、遊女みなみな三味線をひき申し候、かまど返しと申す歌を歌い候、道中節のたぐいにて少し歌い申し候」「またまた港へ参り佐女へ参りこのたびは東回り船にてたびたび江戸へ参り候間、タバコ、茶など江戸より持参し、我らが弟子たびたび都々逸坊扇歌が作りたる都々逸、とっちりとん等の本あり、盛岡よりもかえって江戸近く御座候」などとある。かまど返し、道中節ともに滅びたが、八戸甚句(41ページ)や「白銀ころばし」(38ページ)などが生まれたのもこうした盛り場が背景をなしていたからである。