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幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  三橋美智也(みはしみちや、Mihashi Michiya)

三橋美智也(1)


三橋美智也が民謡歌手として初めてレコードの吹き込みをしたのは小学校6年生になる12歳の頃だった。8歳で全国民謡コンクールで優勝し、すでに民謡界の神童といわれるほどに名を馳せていた美智也にコロムビア・レコードから声がかかる。1942年(昭和17年)3月のことだった。日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告したのはその前年の1941年(昭和16年)。戦時の暗い世相が覆うなか、美智也はあこがれの東京に向かうことになる。コロムビアの東京本社で「江差追分」など数曲を吹き込んだが、このレコーディングには北海道きっての三味線の名手とされた鎌田蓮道が尺八と三味線で参加している。それほどにコロムビアからの期待は強かった。翌年、函館市内の高等小学校(現在の中学校に相当)に進学した美智也は、コロムビアのレコード吹き込みの縁から鎌田蓮道の弟子となり三味線の手ほどきを受けるようになる。だが、太平洋戦争の戦況悪化に伴い、物資不足と食糧難はひどくなる一方だった。美智也は貧しい家計を支えるため、三味線を手ににわか作りの舞台で民謡を唄い、お米をもらい受けて帰る日々であった。昭和19年ごろには戦況はますます悪化し、ついに勤労動員に駆り出されることになる。学校のクラスの先生の引率でパルプ工場や造船所、ドラム缶製造所などに引き連れられてゆくが、先生のいいつけで慰安として工場の隅に舞台を作り民謡を唄うのが美智也の役割でもあった。こうして勤労動員に従事しながら高等小学校を卒業した5カ月後の1945年(昭和20年)8月、日本は終戦を迎えることになる。後年、美智也は自伝で以下のように回顧している。「思えば昭和十六年十二月八日の第二次世界大戦の勃発から二十年八月十五日の敗戦までの足かけ五年という歳月は〝残酷な悪夢〟のような時代でした。戦争という名のもとに、多くの人々が苦しく悲しい体験を余儀なくされたわけです。夫を戦地で失った人たち、飢餓に悩まされ、食物もロクロク食べられず栄養失調になった人、学業もほうり投げて、軍需工場で働かされた青少年......。そんな時代を生きてくると、強靱な精神の持ち主になるようです。(どんなことがあってもくじけないぞ)といった強さが培われるのかもしれません。私の場合もそうでした。」(『ミッチーの人生演歌』) だが、敗戦後の混乱の中でなおも物資不足と食料難は続き、物資不足によるインフレが庶民の生活苦に追い打ちをかける。美智也は民謡を唄い、わずかのお米や野菜をもらい受ける生活であった。敗戦後の物価高騰は1945年の物価水準をベースとすると1949年までの5年間で約70倍にいたるほどの激烈なハイパー・インフレーションであり、日本は「全国飢餓地獄」とすら言われた世相の時代である。美智也はその後、1954年(昭和29年)に「酒の苦さよ」でキングレコードから歌手デビューすることになるが、むろん、その道のりは平坦ではなかった。




三橋美智也(2)

東北地方での巡業生活の日々のなかで日に日に募っていった美智也の思いは、芸人の世界への嫌気だった。

「こういう生活では安定性もない。東京へ出て、大学を卒業して、堅気のサラリーマンになろう。いや、将来は実業家をめざそう」(『ミッチーの人生演歌』)

こうして美智也は、巡業一座を脱出して東京に出ることを腹の中で決意するのだが、その翌日の楽屋で偶然、師匠の白川軍八郎と二人きりになった。

「やっぱり東京だよ。東京へ行きなさい。君は東京へ出て民謡を教えて生活ができる。食うには困らないだろう。あるていど生活のメドがついたら上の学校へ行きなさい。これからの日本は学校を出ていないければ一人前のあつかいを受けなくなる」(同)

東京行きの希望について美智也が白川軍八郎に話したことは一度もなかった。にもかかわらず、静かな口調でそう言われたのだという。

そして一座脱出を決行する日が来る。巡業公演が終わった後ひそかに荷造りをし、リュックサックと太ざお三味線を手に夜行列車に乗り込む。超満員の列車のなか一睡もせずにたどりついた上野駅は、焼け野原にバラックが建ちならび復員兵や痩せこけた老人たちがただただ蠢いている混沌とした世界だった。

右も左もわからない状況ですぐに仕事を見つけなければ食っていけない現実を突きつけられた美智也は、当時の人気喜劇俳優だったエノケン(榎本健一)かロッパ(古川緑波)のどちらかに弟子入りしようと思い立つ。まず、浅草のエノケン邸を訪ねる。だがエノケン本人は不在だった。奥さんに弟子入り志願を申し出たが丁寧に断られた。ロッパ邸でも同様のありさまであった。

そこで7年前にレコードの吹き込みをしたコロムビア・レコードを訪ねた。だが、やはり相手にされなかった。

困り果てた美智也の頭にふと浮かんだのが、当時、国民的人気を博していた民謡歌手の菊池淡水(きくち・たんすい)の名前だ。次は菊池淡水が住む鎌倉市山ノ内へ向かう。やはり本人は不在だった。しかし、奥さんが親切に近くの旅館を紹介してくれた。旅館で一泊し、夜明け前の午前3時ごろ再び邸宅に向かった美智也は、旅興行から帰宅する菊池淡水を玄関口で待ち構えていたのである。



三橋美智也(3)

玄関先で待ち構え、ついに菊池淡水に会うことができた美智也は、たいへんな温情を受け、その日からすぐに就職先の世話をしてもらうことになる。

淡水に連れられ、仏壇屋、八百屋、鉄工所の下請けなどを訪ねて何軒か歩いた末、横浜の雪見橋にあった雪見湯に就職が決まった。この銭湯の経営者が無類の民謡好きだった縁である。しばらくするとお客さんにも民謡好きが多いことがわかり、お年寄りに民謡を教え始める。

この頃、美智也は19歳になっていた。

そんなある日、民謡を教えていたおばあさんの一人から「綱島温泉の東京園でまじめな青年をほしがっているから、よかったら紹介するよ」と言われる。

綱島温泉といえば、大正時代初期に源泉が発見され鉄道網が整備される昭和初期に栄えた東急東横線・綱島駅近郊の大規模温泉街である。かつては「東京の奥座敷」とも呼ばれていた。中でも東京園は、民謡を習いに来るお客さんが多い「民謡温泉」であった。美智也は雪見湯の経営者の許可を得て、東京園に住み込みで働くことになった。昼間はボイラーマンとして働き、夜は毎晩大広間で民謡を教える生活である。

この頃、ボイラーマンとしての月給が4000円、加えて月謝300円の民謡の教え子が50人で1万5000円になる。燃える向学心に収入が追いついてきたこの年から美智也は横浜外語(YMCA)に入学し、初級英語を勉強し始める。また、東京園の支配人の北沢とし子の勧めで、小型四輪とオートバイの免許も取った。

そして1952年(昭和27年)の4月、美智也は念願の高校進学を果たす。

明治大学付属中野高校に入学したこの年、美智也はすでに21歳になっていた。

働きながらの夜学ではなく、昼間部の三年制高校に通うことができたのは、事情を話してボイラーマンの仕事を休止し昼は学生として、夜は東京園で民謡を教える生活に切り替えることが許されたためであった。民謡の教え子の月謝のみで、学費と生活費を十分にまかなえるまでになっていたのである。

三橋美智也(4)

美智也がキング・レコードと専属契約を結ぶことになったのは高校進学を果たした翌年の1953年(昭和28年)のこと。東京園で民謡を教えていた美智也の第一の弟子である平野繁松が「NHKのど自慢」で1位を獲得、その喉を見込まれキング・レコードが平野のレコードを出す計画が進んでいた。三味線伴奏で美智也もレコーディングに参加したが、この日の平野の調子があまりに悪くレコーディングは中断、計画自体が白紙となってしまう。この時、ディレクターの掛川尚雄が目を付けたのが美智也の存在だった。その後、掛川からしつこく口説かれ、結果としてキング・レコードと専属契約を結ぶことになる。だが、そもそも歌手になりたくて東京に出てきたわけではない。大学まで進学してサラリーマンとして実直に生きることを人生の目標としていた美智也にとって、歌はアルバイト程度のものでしかなかった。デビュー曲の『酒の苦さよ』は1954年1月に発売されたが、売れ行きが芳しくなく、歌は向いてないと思った美智也は、いっそう勉学のほうに力を入れるようになっていった。 しかし、その翌年に転機が訪れる。高校卒業式の直前の1週間前に発売された「おんな船頭唄」だ。当時、キング・レコードの人気歌手だった照菊(てるぎく)が唄う『逢初ブルース』をA面とするシングル盤レコードのB面曲だが、これが初のヒット曲となる。こうして一躍人気歌手の仲間入りを果たした美智也の勢いは止まらない。翌年1956年には1年間で14曲を発売し、「リンゴ村から」の270万枚、「哀愁列車」の250万枚をはじめ、14曲中5曲がミリオンセラーとなった。「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの爆発的な三橋ブームが日本全国を席巻した。経済白書に「もはや戦後ではない」との文言が登場し、日本が高度成長期に突入してゆく時代。集団就職者を中心に農村から都市へ流入していった人々の望郷の歌として、美智也の歌は心を強くつかんだ。そしてデビューから約30年後の1985年には、レコード売上総数が日本初の1億枚突破の金字塔を打ち立てる。美空ひばりのレコード・CD売上総数が1億枚を突破したのが2019年だということを考えると、恐るべき記録である。 ところで、1983年に書かれた『ミッチーの人生演歌』には、「私はこれからも、歌謡曲と民謡と津軽三味線に生命を賭していくつもりです」と記されている。流行歌手として成功を収めたが、その原点は一貫して民謡と津軽三味線にあるのだと力強く宣言していたわけである。そこが「歌謡界の王者」の王者たる所以である。


(おわり)




参考文献:

『ミッチーの人生演歌』(三橋美智也、翼書院、1983年)

『三橋美智也——昭和歌謡に見る昭和の世相』(荻野広、アルファベータブックス、2015年)

日銀『金融研究』2012年1月号「戦後ハイパー・インフレと中央銀行」(伊藤正直)https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk31-1-7.pdf

「東京園の復活は?幻の楽園「綱島温泉」の痕跡を追う!(はまれぽ.com、https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=7228)

『ミッチーの人生演歌』(三橋美智也、翼書院、1983年)

『三橋美智也——昭和歌謡に見る昭和の世相』(荻野広、アルファベータブックス、2015年)



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