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津軽三味線Wiki

歴史

1. 名称

津軽三味線

呼称について
つがるしゃみせん
つがるじゃみせん
二通り読みがあるが、

一般的には「つがるじゃみせん」と発音されることが多い。国語辞書においても「つがるじゃみせん」と登録されているが、

津軽三味線奏者においては「つがるしゃみせん」と発音するものも多い。

津軽三味線歴史研究の第一人者、大條和雄氏によると「つがるじゃみせん」が国語的に正しいとのことであるが、

これは津軽三味線は
三味線の一種類であるという感覚と、
単に地元では「三味線」と呼ぶため、
英語でTsugaru Jamisen と表記するより
Tsugaru Shamisen と表記するのがより
Shamisenの一種であると分かりやすい

等の理由がある。

ちなみに金木にある津軽三味線会館では
つがる・しゃみせんかいかん  と発音している。

 4 .1. 棹と胴

歴史

幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  仁太坊(にたぼう、Nitaboh)

邦楽史上、津軽三味線の始祖とされる伝説の三味線弾きといえば仁太坊である。

本名を秋元仁太郎(あきもと・にたろう)という。

「坊」とは坊様(ぼさま)の坊。津軽地方では門付け(かどづけ)をする男性の盲人のことを坊様といった。門付けとは人家の門前や庭に立って音曲を演奏し、祝儀を受け取る大道芸能の一種である。元来は季節によって神が家々を訪れ祝言を述べたという民俗信仰に由来する。仁太郎もまた坊様として活動するようになり「仁太坊」と呼ばれることとなった。

 

1857年(安政4年)に金木新田(かなぎしんでん)の神原(かんばら)村(現在の青森県五所川原市金木町神原)に生まれた仁太郎は、8歳で天然痘にかかる。感染力と致死率の高さから人々に恐れられていた天然痘は、江戸時代には子供がかかりやすい小児病として繰り返し流行した感染症だ。高熱が続いた末に命を落とす例が多く、治癒しても顔や手足に発疹の痕が残る。仁太郎は奇跡的に一命を取りとめたが、失明してしまう。

 

当時の幕藩体制下では目の不自由な少年が経済的に身を立てるために琵琶や三味線、そして按摩や鍼灸の技能を習得する職能ギルドのような組織が存在していた。これを当道座(とうどうざ)という。最高位を検校(けんぎょう)とし、その下に別当、勾当(こうとう)、座頭などの位階が続くピラミッド型の組織で、形式的には寺社奉行が取り仕切っていたが、会計など事務的な作業も盲人が自ら行う互助的な性格の強い組織体として運営されていた。

所属できるのは盲目の男性のみ。盲目の女性向けには瞽女座(ごぜざ)と呼ばれる同様の組織が存在していた。

門付けや按摩の縄張りを当道座に独占されることによって、盲人の職業的な保護を幕府公認で行ったわけである。当道座での修業を経ることで、門付けをして米や金銭を受け取ることが許される。

しかし、当道座もまた封建体制の中の身分制組織であり、渡し守の子である仁太郎は当道座に入ることが許されなかった。渡し守のような「筋目悪しき者」の子は、当道座では弟子に取らないこととされていたのである。

そうしていながらも、失明後の仁太郎は周囲の村人らが驚くほどの聴覚能力の異様な発達を見せていた。そんなある日のこと、神原村を流し歩いていた瞽女(ごぜ、盲目の女性旅芸人)が奏でる三味線の音色を耳にした。このことが仁太郎の逆境の少年期の一大転機となるのだった。

 

 

瞽女が奏でる三味線の音色に激しく心を動かされた仁太郎はこの頃10歳。父・三太郎が瞽女に願い出て仁太郎に三味線を習わせると、たちまち才能の片鱗を見せ始め、異様な習得能力でたちまちさまざまな曲を覚えていった。この時から仁太郎は三味線弾きとして生きていくことを決意しているのだが、そのしばらく後、再び仁太郎に逆境が襲いかかる。父・三太郎の急死である。

三太郎は岩木川の河原の舟小屋に住み渡し守を務めていたが、ある日、悪天候で増水した岩木川で流されあっけなく水死してしまう。なお、仁太郎の母は出産後しばらくして体を壊して亡くなっている。

父・三太郎が亡くなったこの年は慶応2年(1866年)のことだった。こうして天涯孤独の身となった仁太郎は、いよいよ三味線一本で生計を立てていかなければならない窮地に追い込まれてゆく。

だが、時代は幕末から明治に向かう歴史の激動期である。

明治維新後の1871年(明治4年)の太政官布告「盲人之官職自今以後被廃候事」の布告によって、当道座が廃止・解体されたのだった。

当道座の解体は、それまで幕府の管轄下で座頭たちが独占していた芸能の開放を意味する。身分制の廃止によって誰がやってもよいことになったのである。「筋目悪しき者」とされ当道座に入れなかった仁太郎も自由に芸をすることができるようになる。

明治維新が千載一遇のチャンスをもたらし、芸の開花につながる。ここに後の津軽三味線の発生にいたる歴史的転換点があった。

ここからが三味線弾きとしての仁太郎の快進撃の始まりである。

 

 

明治維新後の芸能の開放によって自由に芸ができる環境を得た仁太郎だが、門付けを生業とする坊様「仁太坊」として公に活動を始めるにあたって、もうひとつ重要な意味を持つ制度改革が行われていた。

明治4年(1871年)の虚無僧(こむそう)制度の廃止による尺八の開放だ。

虚無僧とは普化宗(ふけしゅう)の修行僧のことを言う。普化宗は「尺八を吹くこと」を悟りへ道とする禅宗の一派で、武家出身でなければ入門が許されなかった。尺八という楽器は、明治維新以前の虚無僧が独占する法器として扱われ、一般人には触れることが許されない楽器だったのである。

だが、仁太郎は少年時代に失明した後、舟場を偶然訪れた虚無僧から尺八の簡単な手ほどきを受けており、仁太郎にとって尺八は少年時代からの憧れの楽器だった。

虚無僧制度の廃止以降、尺八は誰もが扱える楽器として開放された。仁太坊もまた誰に断ることもなく自由に門付けで尺八を吹くことができるようになった。ここから青年期の仁太坊の芸人人生が始まる。

坊様としての仁太坊は、背中に三味線を背負い、腰に尺八と竹笛を差す独特の格好で各地域のお祭りに姿を現し、評判を呼ぶ。

笑いを意図した漫芸である「謎かけ」も得意とした。客からお題をもらって「○○とかけまして○○とときます。そのこころは」と言葉遊びでうまいことを言う。謎かけは現代でも寄席芸として行われている。

さらに仁太坊が注目を集めたのは一人で八人分の芸をする「八人芸」だった。三味線、尺八、太鼓、声色など八人分の芸を一人で同時に行う大道芸の一種だが、明治維新以前は座頭が見世物小屋や寄席で行っていたため「八人座頭」と言われていた。

こうして着実に評判を得ながらも、仁太坊の芸のあくなき探究は続く。

弘前の芝居小屋「茂森座」で義太夫節を聴き、その音色に惚れ込んだ仁太坊が太棹三味線を初めて手にしたのは明治11年(1878年)のことだ。そして太棹を手にした仁太坊は、弦を激しく打ちつけダイナミックな低音の魅力を発揮する独自の奏法「叩き奏法」を編み出してゆく。その後、15歳の少年の古川喜之助(こがわ・きのすけ)を一番弟子とし、生活を共にする内弟子として迎え入れたのは明治13年のことだった。

 

喜之助を弟子に取った明治13年だが、この2年ほど前に妻のマンと結婚した仁太坊に第1子の作助が生まれたのは明治13年11月のことだった。

内弟子となった喜之助は仁太坊夫婦と一つ屋根の下で生活を共にし、三味線修業を始める。封建時代の芸風を踏襲することを良しとしなかった仁太坊の姿勢は、弟子の教育においても一貫していた。「人まねだったら猿でもできる。おまえはおまえの三味線を弾け!」との思想である。そして明治14年の晩秋の頃、喜之助は坊様として独立し、喜之坊として故郷の南津軽荒田に帰ってゆく。

仁太坊のもとに2人目の弟子志願者が現れたのは明治21年のことだ。長泥村(ながどろむら)から訪ねてきた太田長作(おおた・ちょうさく)である。長作は幼年期に失明。15歳で三味線弾きになることを決意する。仁太坊の通いの弟子となった長作は、杖を頼りにして長泥から神原まで歩いて通った。3年の修業の後に独立した長作坊は明治28年に長泥から狐森(きつねもり)に移り住むが、門下に300人の弟子を抱えるまでになった。後に名人と言われる梅田豊月(うめだ・ほうげつ)もまた長作坊の門弟の一人である。

時代は近代化の巨大な開発のうねりの渦中にあった。津軽の近代化の象徴として、蒸気機関車が初めて到達したのは東北本線の上野-青森間が全線開通した明治24年のことだ。そして日清戦争(明治27〜28年)日露戦争(明治37〜38年)の経て世界は帝国主義全盛期に入ってゆく。こうした激動の時代のなか、仁太坊の最後の弟子となる白川軍八郎(しらかわ・ぐんぱちろう)少年が弟子入り志願に訪れたのは、大正6年(1917年)のことであった。

 

 

 

【参考文献】

・松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)

・大條和雄『津軽三味線の誕生 民俗芸能の生成と隆盛』(新曜社、1995年刊)

・『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(日外アソシエーツ、2010年刊)

・MichaeSl . Peluse「Not Your Grandfather's Music: Tsugaru Shamisen Blurs the Lines between "Folk,""Traditional," and "Pop"」( 『Asian Music』誌36号所収、テキサス大学出版部、2005年刊)

・GERALD T. McGOLDRICK「TSUGARU SHAMISEN AND MODERN JAPANESE IDENTITY」(カナダ・ヨーク大学大学院哲学科博士論文、2017年)

幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  白川軍八郎(しらかわぐんぱちろう、Gunpachiro Shirakawa)

白川軍八郎(1)

 

大正6年(1917年)、この年還暦を迎えた仁太坊に9歳で弟子入りした白川軍八郎はめきめきと三味線の腕を上げ、14歳になる頃には仁太坊の奏法のほぼすべてを習得し、数百年に一度現れるかどうかの天才だとすら言われた。仁太坊から独立した後も、のちの津軽三味線の標準的技法となるような洗練された奏法を独力で練り上げ完成させてゆく。ところで、仁太坊の弟子の中でもSP盤音源が残されているのは、白川軍八郎だけである。テイチク、リーガル、ビクターなど複数レーベルの音源が存在しているが、白川軍八郎が生きた時代は蓄音機の世界的な普及期にあたり、家にいながらにして音楽を聴く体験を人類が初めて経験した時期だということになる。日本における蓄音機の歴史は、明治20年代にさかのぼる。蝋を塗った細長いシリンダーの表面に音を記録する「蝋管式」と呼ばれる蓄音機が日本に持ち込まれたのは明治23年のことだった。

「蓄音機がわが国へ渡来したのは、明治二十三年(一八九〇)頃で、始めは浅草の花屋敷で、蝋管からの発声をゴム管で耳にあてて聞かせる仕方で、余興としてお目見栄したとされている。」(松本重雄「大正時代の銀座の系譜」『貯蓄時報』1978年6月号)われわれが知る円盤型のレコード盤が登場するのは蝋管式のしばらく後だが、日本初の蓄音機吹き込みが行われたのは、英国のレコード会社グラモフォンの録音技師フレッド・ガイスバーグが日本を訪れた明治36年(1903年)である。築地のメトロポールホテルに落語家や浪曲師が招集され、その一室で吹き込みが行われた。その後、米国のコロンビアやビクターをはじめ欧米レコード会社が相次いで日本市場に参入してくる。当時の欧米レコード会社は蓄音機の市場開拓のため、世界中で大がかりな出張録音を敢行していた。渡航先で録音した原盤を持ち帰り、自国工場でプレスしたレコード盤を録音元の国・地域へ蓄音機とともに輸出する。蓄音機のハードと現地化したソフトを同時に輸出するビジネスモデルで、世界に蓄音機の市場を急速に拡大させていった。

日本における蓄音機製造とレコードプレスの国産化は、日米蓄音機製造、のちの日本コロムビアが設立された明治40年(1907年)以降のことである。日本コロムビアのレーベルとしては「ニッポノホン」がよく知られているが、白川軍八郎の盤もある「リーガル」は昭和8年以降にリリースされた大衆向けレーベルであった。

 

 

 

 

白川軍八郎(2)

 

白川軍八郎は16歳の時に小原家万次郎一座に入る。大正13年のことである。だが、大正15年には万次郎が一座を妹の三上鶴子に譲ったことにより、軍八郎もまた三上鶴子一座の所属となった。一方、昭和3年には津軽で天才民謡歌手といわれた工藤美栄を座長とする陸奥乃家(むつのや)演芸団が旗揚げしている。そこに軍八郎は昭和10年に入団することになる。

軍八郎の弟子の秋元博が2013年に『秋田魁新報』の取材に答えた「シリーズ時代を語る」の記事によると、秋元博が弟子入りした当時、その曲弾きですでに名人と言われていた軍八郎は39歳だった。

陸奥乃家演芸団は、中津軽郡千年村(ちとせむら)小栗山(こぐりやま)の工藤美栄の自宅を拠点とした一座で、軍八郎はその家の2階の一室をあてがわれていたのだという。

だが、座員が家で寝起きするのは年に1カ月程度、ほとんどの期間は巡業に出ていた。まず大みそかに弘前を出発し、元日から北海道の函館で正月興行が1週間、そして1月中は北海道内の炭鉱や漁港を回る。桜の季節になれば弘前に戻って観桜会の舞台をこなし、そして東北各地を巡業する。巡業の合間に弘前に戻っても工藤家のリンゴ畑の収穫や運搬の手伝いに座員たちが駆り出されていた。

秋元と同時期に陸奥乃家演芸団に所属していた軍八郎の弟子に、金谷美智也がいた。それが後の三橋美智也である。

美智也は昭和5年(1930年)、北海道上磯町生まれ。母親の金谷サツが民謡歌手だったこともあり、5歳から民謡を歌い、天才民謡少年と呼ばれるほどの才能を示していた。16歳で陸奥乃家演芸団に入団し、軍八郎の弟子として三味線の修業に明け暮れる。

そんな美智也が陸奥乃家演芸団を離れて上京するのは19歳の時だ。陸奥乃家演芸団の巡業先の秋田の横手でたまたま入った映画館で見た東京のシーンが上京のきっかけとなったのだという。

 

参考文献:

「シリーズ時代を語る:[秋元博]弘前の演芸団に入る」(『秋田魁新報』2013年8⽉22⽇付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]師匠は「うん」の一言」(『秋田魁新報』2013年8⽉23⽇付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]津軽では皆が作曲者」(『秋田魁新報』2013年8月25日付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]みっちゃんの思い出」(『秋田魁新報』2013年8月27日付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]美智也の確かな功績」(『秋田魁新報』2013年8月28日付)

幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  三橋美智也(みはしみちや、Mihashi Michiya)

三橋美智也(1)

 

三橋美智也が民謡歌手として初めてレコードの吹き込みをしたのは小学校6年生になる12歳の頃だった。8歳で全国民謡コンクールで優勝し、すでに民謡界の神童といわれるほどに名を馳せていた美智也にコロムビア・レコードから声がかかる。1942年(昭和17年)3月のことだった。日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告したのはその前年の1941年(昭和16年)。戦時の暗い世相が覆うなか、美智也はあこがれの東京に向かうことになる。コロムビアの東京本社で「江差追分」など数曲を吹き込んだが、このレコーディングには北海道きっての三味線の名手とされた鎌田蓮道が尺八と三味線で参加している。それほどにコロムビアからの期待は強かった。翌年、函館市内の高等小学校(現在の中学校に相当)に進学した美智也は、コロムビアのレコード吹き込みの縁から鎌田蓮道の弟子となり三味線の手ほどきを受けるようになる。だが、太平洋戦争の戦況悪化に伴い、物資不足と食糧難はひどくなる一方だった。美智也は貧しい家計を支えるため、三味線を手ににわか作りの舞台で民謡を唄い、お米をもらい受けて帰る日々であった。昭和19年ごろには戦況はますます悪化し、ついに勤労動員に駆り出されることになる。学校のクラスの先生の引率でパルプ工場や造船所、ドラム缶製造所などに引き連れられてゆくが、先生のいいつけで慰安として工場の隅に舞台を作り民謡を唄うのが美智也の役割でもあった。こうして勤労動員に従事しながら高等小学校を卒業した5カ月後の1945年(昭和20年)8月、日本は終戦を迎えることになる。後年、美智也は自伝で以下のように回顧している。「思えば昭和十六年十二月八日の第二次世界大戦の勃発から二十年八月十五日の敗戦までの足かけ五年という歳月は〝残酷な悪夢〟のような時代でした。戦争という名のもとに、多くの人々が苦しく悲しい体験を余儀なくされたわけです。夫を戦地で失った人たち、飢餓に悩まされ、食物もロクロク食べられず栄養失調になった人、学業もほうり投げて、軍需工場で働かされた青少年......。そんな時代を生きてくると、強靱な精神の持ち主になるようです。(どんなことがあってもくじけないぞ)といった強さが培われるのかもしれません。私の場合もそうでした。」(『ミッチーの人生演歌』) だが、敗戦後の混乱の中でなおも物資不足と食料難は続き、物資不足によるインフレが庶民の生活苦に追い打ちをかける。美智也は民謡を唄い、わずかのお米や野菜をもらい受ける生活であった。敗戦後の物価高騰は1945年の物価水準をベースとすると1949年までの5年間で約70倍にいたるほどの激烈なハイパー・インフレーションであり、日本は「全国飢餓地獄」とすら言われた世相の時代である。美智也はその後、1954年(昭和29年)に「酒の苦さよ」でキングレコードから歌手デビューすることになるが、むろん、その道のりは平坦ではなかった。

 

 

 

三橋美智也(2)

東北地方での巡業生活の日々のなかで日に日に募っていった美智也の思いは、芸人の世界への嫌気だった。

「こういう生活では安定性もない。東京へ出て、大学を卒業して、堅気のサラリーマンになろう。いや、将来は実業家をめざそう」(『ミッチーの人生演歌』)

こうして美智也は、巡業一座を脱出して東京に出ることを腹の中で決意するのだが、その翌日の楽屋で偶然、師匠の白川軍八郎と二人きりになった。

「やっぱり東京だよ。東京へ行きなさい。君は東京へ出て民謡を教えて生活ができる。食うには困らないだろう。あるていど生活のメドがついたら上の学校へ行きなさい。これからの日本は学校を出ていないければ一人前のあつかいを受けなくなる」(同)

東京行きの希望について美智也が白川軍八郎に話したことは一度もなかった。にもかかわらず、静かな口調でそう言われたのだという。

そして一座脱出を決行する日が来る。巡業公演が終わった後ひそかに荷造りをし、リュックサックと太ざお三味線を手に夜行列車に乗り込む。超満員の列車のなか一睡もせずにたどりついた上野駅は、焼け野原にバラックが建ちならび復員兵や痩せこけた老人たちがただただ蠢いている混沌とした世界だった。

右も左もわからない状況ですぐに仕事を見つけなければ食っていけない現実を突きつけられた美智也は、当時の人気喜劇俳優だったエノケン(榎本健一)かロッパ(古川緑波)のどちらかに弟子入りしようと思い立つ。まず、浅草のエノケン邸を訪ねる。だがエノケン本人は不在だった。奥さんに弟子入り志願を申し出たが丁寧に断られた。ロッパ邸でも同様のありさまであった。

そこで7年前にレコードの吹き込みをしたコロムビア・レコードを訪ねた。だが、やはり相手にされなかった。

困り果てた美智也の頭にふと浮かんだのが、当時、国民的人気を博していた民謡歌手の菊池淡水(きくち・たんすい)の名前だ。次は菊池淡水が住む鎌倉市山ノ内へ向かう。やはり本人は不在だった。しかし、奥さんが親切に近くの旅館を紹介してくれた。旅館で一泊し、夜明け前の午前3時ごろ再び邸宅に向かった美智也は、旅興行から帰宅する菊池淡水を玄関口で待ち構えていたのである。

 

 

三橋美智也(3)

玄関先で待ち構え、ついに菊池淡水に会うことができた美智也は、たいへんな温情を受け、その日からすぐに就職先の世話をしてもらうことになる。

淡水に連れられ、仏壇屋、八百屋、鉄工所の下請けなどを訪ねて何軒か歩いた末、横浜の雪見橋にあった雪見湯に就職が決まった。この銭湯の経営者が無類の民謡好きだった縁である。しばらくするとお客さんにも民謡好きが多いことがわかり、お年寄りに民謡を教え始める。

この頃、美智也は19歳になっていた。

そんなある日、民謡を教えていたおばあさんの一人から「綱島温泉の東京園でまじめな青年をほしがっているから、よかったら紹介するよ」と言われる。

綱島温泉といえば、大正時代初期に源泉が発見され鉄道網が整備される昭和初期に栄えた東急東横線・綱島駅近郊の大規模温泉街である。かつては「東京の奥座敷」とも呼ばれていた。中でも東京園は、民謡を習いに来るお客さんが多い「民謡温泉」であった。美智也は雪見湯の経営者の許可を得て、東京園に住み込みで働くことになった。昼間はボイラーマンとして働き、夜は毎晩大広間で民謡を教える生活である。

この頃、ボイラーマンとしての月給が4000円、加えて月謝300円の民謡の教え子が50人で1万5000円になる。燃える向学心に収入が追いついてきたこの年から美智也は横浜外語(YMCA)に入学し、初級英語を勉強し始める。また、東京園の支配人の北沢とし子の勧めで、小型四輪とオートバイの免許も取った。

そして1952年(昭和27年)の4月、美智也は念願の高校進学を果たす。

明治大学付属中野高校に入学したこの年、美智也はすでに21歳になっていた。

働きながらの夜学ではなく、昼間部の三年制高校に通うことができたのは、事情を話してボイラーマンの仕事を休止し昼は学生として、夜は東京園で民謡を教える生活に切り替えることが許されたためであった。民謡の教え子の月謝のみで、学費と生活費を十分にまかなえるまでになっていたのである。

三橋美智也(4)

美智也がキング・レコードと専属契約を結ぶことになったのは高校進学を果たした翌年の1953年(昭和28年)のこと。東京園で民謡を教えていた美智也の第一の弟子である平野繁松が「NHKのど自慢」で1位を獲得、その喉を見込まれキング・レコードが平野のレコードを出す計画が進んでいた。三味線伴奏で美智也もレコーディングに参加したが、この日の平野の調子があまりに悪くレコーディングは中断、計画自体が白紙となってしまう。この時、ディレクターの掛川尚雄が目を付けたのが美智也の存在だった。その後、掛川からしつこく口説かれ、結果としてキング・レコードと専属契約を結ぶことになる。だが、そもそも歌手になりたくて東京に出てきたわけではない。大学まで進学してサラリーマンとして実直に生きることを人生の目標としていた美智也にとって、歌はアルバイト程度のものでしかなかった。デビュー曲の『酒の苦さよ』は1954年1月に発売されたが、売れ行きが芳しくなく、歌は向いてないと思った美智也は、いっそう勉学のほうに力を入れるようになっていった。 しかし、その翌年に転機が訪れる。高校卒業式の直前の1週間前に発売された「おんな船頭唄」だ。当時、キング・レコードの人気歌手だった照菊(てるぎく)が唄う『逢初ブルース』をA面とするシングル盤レコードのB面曲だが、これが初のヒット曲となる。こうして一躍人気歌手の仲間入りを果たした美智也の勢いは止まらない。翌年1956年には1年間で14曲を発売し、「リンゴ村から」の270万枚、「哀愁列車」の250万枚をはじめ、14曲中5曲がミリオンセラーとなった。「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの爆発的な三橋ブームが日本全国を席巻した。経済白書に「もはや戦後ではない」との文言が登場し、日本が高度成長期に突入してゆく時代。集団就職者を中心に農村から都市へ流入していった人々の望郷の歌として、美智也の歌は心を強くつかんだ。そしてデビューから約30年後の1985年には、レコード売上総数が日本初の1億枚突破の金字塔を打ち立てる。美空ひばりのレコード・CD売上総数が1億枚を突破したのが2019年だということを考えると、恐るべき記録である。 ところで、1983年に書かれた『ミッチーの人生演歌』には、「私はこれからも、歌謡曲と民謡と津軽三味線に生命を賭していくつもりです」と記されている。流行歌手として成功を収めたが、その原点は一貫して民謡と津軽三味線にあるのだと力強く宣言していたわけである。そこが「歌謡界の王者」の王者たる所以である。

 

(おわり)

 

 

 

参考文献:

『ミッチーの人生演歌』(三橋美智也、翼書院、1983年)

『三橋美智也——昭和歌謡に見る昭和の世相』(荻野広、アルファベータブックス、2015年)

日銀『金融研究』2012年1月号「戦後ハイパー・インフレと中央銀行」(伊藤正直)https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk31-1-7.pdf

「東京園の復活は?幻の楽園「綱島温泉」の痕跡を追う!(はまれぽ.com、https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=7228

『ミッチーの人生演歌』(三橋美智也、翼書院、1983年)

『三橋美智也——昭和歌謡に見る昭和の世相』(荻野広、アルファベータブックス、2015年)

幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  木田林松栄(きだ りんしょうえ、Kida Rinshoe)

木田林松栄(1)

 

戦後日本が高度成長を遂げた1970年(昭和45年)ごろ、津軽三味線の二大名人として「弾きの竹山、叩きの林松栄」と対比され注目を集めたのが、高橋竹山(たかはし・ちくざん)と木田林松栄(きだ・りんしょうえ)である。

木田林松栄は、1911年は(明治44年)に南津軽郡柏木村に生まれる。本名は田中林次郎。父・田中重太郎と母・田中さしの三男として生まれ、子供の頃から門付けに訪れた仁太坊の孫弟子・亀坊(かめぼ)のあとをついて歩いていたぐらい、三味線に魅かれていた。

尋常高等小学校を卒業し、農学校に進学したものの三味線への強い思いから中退し、17歳で吹田三松栄(ふきた・さんしょうえ)の通い弟子となる。その2年後、19歳で陸奥乃家(むつのや)演芸団に入団することになる。昭和5年のことだ。

林松栄の入団からほどなくして福士政勝(ふくし・まさかつ)が同演芸団に入団、その後の昭和10年には白川軍八郎が入団し、一座内で三羽烏と呼ばれるようになる。

林松栄は白川軍八郎の三味線の音色とその技術に衝撃を受けるが、弟子になったわけではなく、楽屋で三味線を弾いていた軍八郎の音色を隠れて必死で盗み聞きしていたのだという。

1932年(昭和7年)には、陸奥乃家演芸団の座長で民謡歌手の工藤美栄のレコード発売のため、林松栄は三味線伴奏でレコード吹き込みを行なっている。民謡興行の中で自らの三味線奏法を模索するが、時代は戦争の真っ只中である。昭和18年には、林松栄にも召集令状が届く。林松栄の豪快な叩き三味線を大衆が耳するのは戦後のことである。

林松栄は迫力ある音色を追求するため、とりわけ一の糸の太さにこだわった。30号が限度だとされる一の糸に、より太い35号を使うようになる。昭和36年には東京の民謡ブームを背景に、民謡酒場の浅草』七五三」の専属になるが、この頃はついに40号の極太を使うまでになっていたのである。

 

l 木田林松栄(2)

 

昭和37年(1962年)に浅草の民謡酒場「七五三」から池袋の宴会場「白雲閣」に移籍した林松栄は、津軽民謡歌手の浅利みきとのコンビで白雲閣の大看板となってゆく。その後、昭和41年に浅利みきとともに独立する。

高橋竹山との対比でいえば、林松栄は津軽三味線の伴奏に軸をおき、民謡の歌い手との関係を前提に演奏を続けていった。一方の竹山は、シャンソン歌手の淡谷のり子が定期ライブを行っていた渋谷の地下小劇場「ジァンジァン」で定期公演を行うようになる。ジァンジァンは当時の前衛演劇やフォークシンガーら、カウンターカルチャーの拠点でもあった。民謡伴奏ではなく三味線だけを聴かせる竹山の演奏は、それまでの民謡界とは別のまったく新たな客層を発見してゆくことになる。

こうして演奏手法や支持層の違いからライバル関係とみなされてゆく林松栄と竹山だが、お互い仲が悪かったわけではない。両者がメディアを通して決定的にライバルとみなされるようになったきっかけは、昭和49年によみうりテレビ「11PM」の企画で制作された芸術祭参加作品の番組『三味線の詩』だといわれる。この番組内で、両者を別々の場所で収録した「三味線は弾くもの」「三味線は叩くもの」との発言を同一画面で流したためだとされる。メディアの煽りによって対立させられ、それ以降、両者の関係が悪くなったという証言もある(「まんよう文化」誌上での木田林松次・三隅治雄対談)。問題の番組『三味線の詩』は昭和50年にLP盤としてキャニオンレコードから発売されるが、竹山本人の許可なく発売されたため、2週間で販売中止、3カ月後に廃盤となる。

竹山の支持層が民謡に縁のないサブカルチャー志向の若者やインテリに支持されたのは、この時代の音楽文化の変化を見るうえで特徴的な現象だが、林松栄は民謡にこだわり多くの弟子を取った。

林松栄は昭和54年1月1日に67歳で亡くなったが、木田流と竹山流は津軽三味線二大潮流として、今なおその底流にある。

 

 

 

【参考文献】

・松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)

・ 松木宏泰「北の熱き民族音楽 津軽三味線」『Civil Engineering Consultant』2006年7月号

・大條和雄『津軽三味線の誕生 民俗芸能の生成と隆盛』(新曜社、1995年刊)

​幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  高橋 竹山(たかはし ちくざん、Takahashi Chikuzan)

 

高橋竹山(1)

1970年代、木田林松栄のライバルとされた高橋竹山は津軽三味線を現代音楽として聴衆に認識させる契機をつくった一方の巨匠である。

竹山が東京・渋谷の小劇場ジァン・ジァンで定期演奏を開始したのが1973年12月だ。ジァン・ジァンは渋谷の公園通りの山手教会地下に1969年オープン。俳優・中村伸郎がウジェーヌ・イヨネスコの不条理劇『授業』を11年間にわたって毎週金曜に演じで伝説となるほか、吉田拓郎、古井戸、泉谷しげる、荒井由実時代のユーミンら、多くのフォークシンガーらが巣立っていった場所でもある。のちに「サブカルの聖地」といわれる。

 

竹山は渋谷ジァン・ジァンで1973年以降毎月ライブを行い、民謡になじみのなかった若者たちに澄んだ音色の三味線をしんみりと聴かせていた。

竹山は本名を定蔵(さだぞう)という。明治43年(1910年)に東津軽郡中平内(なかひらない)村に生まる。2歳で麻疹にかかり失明。両親は竹山が15歳のときに近くに住む戸田坊(とだぼ)に弟子入りさせる。戸田坊から三味線を習い、共に門付けに歩く日々を送ったが2年ほどで独立。大正15年(1926年)からひとり旅を始める。竹山の人生にとって三味線と民謡はあくまでも生きてゆくための手段だったが、竹山の音感には並外れたものがあった。昭和6年に民謡歌手の函青くに子の一座に入り、旅巡業の中で出合った浪曲三味線をレコードを聴き独学で習得したのだという。だが、紆余曲折は続き、鍼灸師になるため、昭和19年には34歳で靑森の八戸盲唖学校中等部に入学している。5年後、八戸盲唖学校を卒業し、鍼灸と按摩の免状を取得した竹山はさっそく自宅で開業するが商売はさっぱりうまくいかず。そうこうしている間に津軽民謡界で別格の存在とされていた成田雲竹(なりた・うんちく)から声がかかり熱心に口説かれた結果、再び三味線を手にした竹山は、成田雲竹の弟子となり「竹山」の名をもらう。こうして雲竹とコンビを組み、伴奏者して活動することになるのだった。

 

高橋竹山(2)

民謡歌手の大家である成田雲竹の弟子となった竹山は、1950年(昭和25年)以降、雲竹の伴奏者として雲竹引退までの14年間にわたり活動を共にし、各地を巡業する。雲竹と竹山の師弟関係は厳しいものだった。雲竹は竹山の独自活動を許さず、1963年にキングレコードから『津軽三味線 高橋竹山』をリリースする際も雲竹はなかなか首を縦に振らなかったのだという。竹山が津軽三味線の独奏による自らの音楽性を遺憾なく発揮し始めるのは、1964年に師弟関係が解消された後のことである。

全国的にその名を知られるようになったのは1971年、青森放送の制作によるドキュメンタリー番組『寒撥(かんばち)』の放送がきっかけだ。同番組はこの年の文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。以降、竹山の名前の全国化とともに、音楽ジャンルとしての「津軽三味線」が全国的に認識されるようになってゆく。

また、サブカルの聖地と言われた渋谷ジァンジァンで定期演奏を開始する1973年から、竹山の津軽三味線を現代音楽として捉えた若者たちの間で人気が高まり、竹山ブームが巻き起こる。

この時期から竹山と木田林松栄を「弾きの竹山」対「叩きの林松栄」の対比で両者をライバル視する図式がメディアを通して喧伝されてゆくが、「三味線界のジミヘン」とも言われた竹山の音楽性が既存の邦楽の範疇を大きく越え出るものであったことは間違いないであろう。1986年にはアメリカ合衆国での7都市10公演を敢行し、米紙ニューヨーク・タイムズ掲載の論評で「名匠」との賛辞を受ける。このことが津軽三味線の世界化のさきがけとなった。

 

2021年6月、新興のレコードレーベルVOLUKUTA(フォルクタ)から「岩木即興曲」の京都・円山公園音楽堂でのライブ音源を米国人ジャス・ベーシストのビル・ラズウェルがリミックスした12インチアナログ盤がリリースされた。

生誕から1世紀を経てもなお、竹山が切り開いた新たな音楽性は、世界の音楽の未知の可能性を示唆しているといえるであろう。

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山田千里(1)

 

山田千里(やまだ・ちさと)は1931年(昭和6年)、豪雪地帯である白神山地の麓、西津軽郡赤石村(現在の鯵ヶ沢町)に生まれる。満州事変の年である。

父の儀助は集落に広大な土地を持つ豪農であった。猟師として働くかたわら、蓄音器で民謡のレコードを聴き、趣味で三味線を弾いていた。子供の頃の千里は、父の三味線を持ちだして遊んでいたという。

戦後になって中学校卒業を翌年に控えた1946年(昭和21年)の春、千里は三味線弾きになりたいと父に打ち明けるが、「遊び人のかまどけしになるなら勘当だ」と叱りとばされ取り合ってもらえない。「かまどけし」とは、かまどの火を消してしまう者、すなわち「破産者」を意味する津軽弁である。儀助は常々、大工か桶屋の弟子になれと千里に言い聞かせていたのだった。

だが、転機はすぐに訪れる。

この年の7月、家から約8キロのところにある千聖が通っていた南金沢小学校に福士政勝(ふくし・まさかつ)一座が巡業にやって来たのである。

父には内緒で8キロの山道を向かった千里は一座の唄会に聴き惚れ、終演後に楽屋付近に寄っていくと、そこにいた一人の男から「一緒に行かないか」と声をかけられる。男が何者なのかはわからなかったが、その男の一言を受け、千里は山道を駆け出しいったん家に戻って父の三味線を持ち出し、すぐに10キロ先にある福士一座の巡業先の明石劇場に向かって三味線を担いで走り出した。

一座は政勝の妻の成田雲竹女(なりた・うんちくじょ)を看板とする7人所帯。この日の夜の公演から千里は幕引きや使い走りなど一座の仕事を手伝い始める。

こうして千里は、家出同然のかっこうで福士政勝の弟子として一座に入団してしまうのだった。

 

山田千里(2)

福士政勝一座に家出さながらの体で入団した千里は、三味線の稽古を続けるが、次第に三味線それ自体よりむしろ、一座の興行のやり方に関心が向かうようになる。持って生まれた興行師としての勘が目覚めたのか、1949年(昭和24年)には、千里は自らの一座「津軽民謡団」を結成することとなる。団員は千里の最初の妻となる山田百合子を含む7人だった。この年、千里は18歳になったばかり。興行自体が未経験だったにもかかわらず一座は7年にわたって興行を続けることになる。

そうした興行の間にも、千里の妻となった百合子との関係は次第に悪化し、民謡歌手の福士りつを興行に迎えた頃にはすでに関係性は破局に近づいていた。

そして、東京オリンピックが開催された1964年には福士りつと再婚。同年にライブハウス「山唄」を弘前市に開業し、りつと夫婦で経営に携わることになる。

開店にあたって「民謡酒場」の名称をあえて使わず「ライブハウス」と名乗ったのは千里の先見の明と言えるだろう。

興行師としての顔が目立つ千里だったが、三味線奏者としての評価を高めたのは自主制作盤LP『津軽民謡と共に25年/福士りつの唄』を東芝EMIから発売した1974年である。同LPが画家・斎藤真一の目に留まり、以降マスコミで広く取り上げられ、ハンガリーやアメリカなど海外公演のオファーも受けるようになる。

三味線奏者として名手との評価も定まるなか、それでもなお千里の興行師としての魂は燃え続ける。1982年には、日本初の津軽三味線競技コンクールである「津軽三味線全国大会」を自らの手でプロデュースしている。当初は青森放送の25周年記念事業として企画され、予算の都合でいったんお蔵入りになったが、千里のプロデュース能力で現実化させたたわけである。

こうした津軽三味線普及への貢献がのちに評価され、1988年には鰺ヶ沢町のはまなす公園に「山田千里・福士りつ顕彰碑」顕彰碑が建てられた。また、1990年には第41回NHK紅白歌合戦に福士りつが津軽あいや節で出場している。千里も伴奏で登場した。

津軽三味線の奏者としてより、文化的社会的な普及促進活動に生涯を賭けたのが彼の生涯だったのであろう。2004年糖尿病の悪化による合併症で死去。享年72歳だった。
ライブハウス「山唄」は、千里の没後、長男が引きついでいたが、後継者難で2016年4月に惜しまれながら閉店。「津軽三味線全国大会」は「津軽三味線世界大会」と名称を変え現在も開催されている。

 

【参考文献】

・松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)

・大條和雄『津軽三味線の誕生 民俗芸能の生成と隆盛』(新曜社、1995年刊)

​青森県

位置と行政区分と沿革

 

本県は本州の北端に位置し、津軽海峡を隔てて北海道(藩政時代には蝦夷地または松前と呼ばれた)に対し、東は太平洋、西は日本海、南は秋田岩手両県に接している。陸奥の国に属する弘前(明治23年市制)青森(同31年市制)八戸(昭和4年市制)の三市と東西南北中の五つの津軽郡、上下二つの北郡および三戸郡三市八郡を管轄し、県庁を青森市に置く。総面積は約9600平方キロで奥羽六県中第四位の大きさである。現在の青森県を陸奥国(岩手県二戸郡もこれに含む)と呼んだのは明治元年12月7日以降のことで、それまでは今の福島、宮城、岩手、青森を総括して陸奥と呼んでいたので長い間、蝦夷またはえみしと呼ばれ、かつその後裔で皇化に浴して俘虜と称せられた異民族が長い間勢力を奮っていた地方で、ことにその最奥地である現在の青森県下のごときは鎌倉時代に至って安倍貞任の後と称する安東氏が津軽地方に勢力をほしいままにするまでの歴史はほとんどわかっていない。平安朝の初め延暦年間(1442―53)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけ北郡や津軽の端までも討伐の手を差し伸べたという伝説のごときも要するに浮説にすぎず、その際は今の岩手県まででそれ以北にはおよび得なかったということである。のちに源頼朝が文治5年(1849)俘虜長として数代の栄華を誇った藤原泰衡の一族を滅ぼした時に、これにしたがって大功をたてた甲斐国南部庄の地頭職南部三郎光行(―1875)が頼朝から糠部、九戸、閉伊、鹿角、津軽の五郡を賜り三戸に城を築いて統治することになったのが南部氏の起こりであるが、子孫相継いで明治維新に及んだ。

なおこの光行には六男があり、長子行朝は妾腹の出であったので一戸に分家し、次子の実光が二代の家督を継ぎ、三子実長は八戸に分家、四子宗朝は四戸へ五子

行連は九戸、六子朝清は七戸へそれぞれ分家した。ただしこれらの支藩にも後代に及んで消長があり、八戸家四代の師行(―1998)は勤皇の志厚く、八代の政光に至る間南朝のために傾倒するところが多かった。後二十二代の直義の代になって寛永4年(2287)閉伊郡遠野へ一万二千石で移され、八戸へは後に本家二十七代利直の七子直房が寛文4年(2324)から分封され、この子孫が八戸藩として明治に及んだ。現在遠野地方に残っている「田植踊」その他の芸能が非常に八戸地方のものと共通しているのは藩主の移住に伴って領民の交替が行われたためかもしれない。また七戸藩は藩祖の朝清が封じられて以来の系譜はつまびらかではないが、本家二十九代重信の次子政信が元禄7年(2354)に父から新田5千石を分知され、さらに支藩五代の信邦の世になってさらに6千石を加増城主格となったところを見ると、それまでは中絶していたのかもしれない。この子孫が相継いで七戸藩として明治に及んだ。また明治維新の大政奉還の勅命に抗して破れた会津の松平氏が同3年に下北半島の田名部に国替えされて斗南藩と称してわずかに余命を繋いだのがいずれも同4年7月に八戸県、七戸県、斗南県となり、同年9月には弘前県に合併され、さらに県庁が青森に移るに及んで青森県と改められたのである。また平安朝末期から足利時代へかけて津軽に雄飛した安東氏の祖は安倍貞任の一子高星で、父貞任が源頼義に討たれた時には幼くして乳母に抱かれて津軽に逃れたが、のちに長して藤崎城(今の南津軽郡藤崎村)により安東を姓として大いに威を振るい、その一族秀栄の代になって嘉應文治(1829―46)の頃には十三港に福島城を築いて津軽六郡を領した。現在この十三湖の周辺にある北津軽郡相内村に行われている盆踊りの「ナオハイ節」(44ページ)のごときはすこぶる古調わすべきものがあって安東氏時代のものではないかと考えられる。

この安東氏は常時蝦夷地をも合わせて上国(今の江差地方)下国(今の松前地方)を支配していたが高星の八代の孫盛梨の代になって、南部14代の義政の攻略に会い、嘉吉3年(2103)津軽を追われて蝦夷地に亡命するに至った。しかし、其の後蝦夷地でも属臣の武田信広が勢力を得たため、一族合同して出羽の秋田に逃れ秋田姓を名乗るに至った。現在津軽地方にはなく岩手県の南部領だけに残っている「御祝」(116、120ページ)の歌詞「ゆるゆるとお控えめされ十三から船の着くまで」とか「松前は名勝どこ、諸国の船はみな着く」というような歌詞が今まで継承されるのは、この歌の発生経路を物語るものというべきで、安東氏が津軽、蝦夷地領有時代の栄華の痕跡と見ることができる。かくして津軽は南部氏の有に帰して数代を経る中に23代安信の天文年間(2192―)以来これに従わぬ者が出てきたので舎弟高信を石川の大仏城(今の南津軽郡石川村)に置いて統治せしめている中、その配下に属していた大浦為信が元亀2年(2231)5月決然立って高信を殺してこれを奪い、姓を津軽と改めてこの地方一帯を横領するとともに、南部勢力の反抗を退け、さらに一方には常時中央にあって天下統一の偉業を着々と進めていた豊臣秀吉に通じ、天正18年北条征伐のため小田原へ出陣中の秀吉に謁見して津軽領安堵の保証を得るなど外交的手腕を用いて南部氏の先手を打ったため、さすがの南部氏もいかんともすること能わず、泣き寝入りとなった。かくして津軽氏は二代信牧の慶長16年(2271)に弘前に築城して移り、明暦2年(2316)には信牧の次子信英を黒石に分知して支藩たらしめた。そして子孫継承して明治に至り、廃藩置県に際して弘前、黒石ともに一旦県となったが、さらに南部の七戸、八戸県などとともに青森県に合併された。

​地理と風土的特徴

 

まずその一般的な輪郭としては、東に下北、西に津軽の両半島が陸奥湾を抱いて凸字形をなし、その東西北の三方を囲む海岸線の延長700キロに及び、本土の背骨をなす奥羽山脈が中央を南北に縦断し、其の上に那須火山系に属する八甲田群(最高1550メートル)や恐山(700メートル)が噴出し、また西部には鳥海火山系に属する岩木山(1625メートル)が聳え、その秀麗なる山容は津軽富士の名に呼ばれるにふさわしい。河川と平野は西部秋田との県境矢立峠に発源して北上し十三潟に注ぐ岩木川(流程90キロ)は必ずしも大河とはいえないが、その流域に展開する1000平方キロの沃野はいわゆる津軽米の産地となり、これに対して東方には岩手県九戸郡に発して北流し八戸付近で海に入る馬淵川や、十和田湖から東流する奥入瀬川などの流域には950平方キロの隆起海岸平野が存在するが、中には小川原沼のような非隆起の開拓の進まない沼沢地も残されている。また中央部には青森市を中心とする駒込、荒川の両河に沿った170平方キロの青森平野があり、農耕が拓けてはいるが奥羽山脈に近くにしたがって乾燥した洪積層の大波状原が展開して牧養地として利用されている。

気温は一年を通しての平均9度で、1月が最も寒く、8月が暑く、快晴30日、降水217日、酷暑の頃でも朝夕は常に冷気を覚え残暑と余寒はむしろ激しい方で積雪も丈余に達して往々軒先きを没することがある。また東海岸を流れる親潮(寒流)が時として寒冷の北東風を送って農作物を害する。この風は吹き出すと長くなるので、三厩あたりでもヤマセ7日吹かねば止まらぬという俗諺がある。この西の津軽方面では冬季になると日本海を隔ててシベリア大陸に発生する高気圧の影響で西の季節風が吹き漁業に難を与える。したがってこの自然的制約は住民の生業にも影響を与えないはずはなく、東方の南部三戸と西方の津軽五郡とはおおよそ同等の面積ながら、農業戸数は南部が4割、津軽が6割に対して、漁業戸数は南部の6割5分に対して津軽が3割5分の比率を持つ。なおこの南部と津軽住民との対立はその気風の上にも現れ、津軽人は進取的であるが、一面軽佻浮薄で移り気なところがあり、また南部人は保守的で鈍重であるが、律儀なところがあるという。この相違は平生好んで歌う歌の節にも現れ、津軽人が「よされ」「じょんがら」「小原」のような派手な歌を喜び、それも次々と新手の新しい節回しを工夫して変化せしめているが、南部人は「ナニヤトヤラ」のような正鵠のわからない歌をそのまま古格を守って飽きもせず今日まで歌い続けているのである。

​交通路の今昔とその変遷

 

藩政時代にあっては今の奥羽6県が総括して奥州、出羽と呼ばれた中でも青森県は一番北の果ての僻遠の地であっただけに道路なども開けず、陸上交通は不便であったらしい。徳川幕府が交通政策上の重要施設たる5街道の中の奥州道中は江戸千住から今の北津軽郡の北端三厩に至るとしてあるが文化8年に道中掛から勘定方へ提出した書状には千住から今の福島県の白河までとしてある(経済学大辞典)。いずれにせよこの道路は奥羽各地の大名の参勤交代が主なる利用目的になっていたのだから、白河以北は幕府の管轄外にあったのかもしれない。しこうして八戸、七戸藩はその宗藩の居城たる盛岡を経由してこの奥州道中を上下したのであり、津軽、黒石藩に矢立峠から国超えをして秋田の佐竹領を通過出羽路を上下した。また蝦夷地の松前氏も津軽領三厩に上陸してから青森まで奥州道中をさらに弘前に出て出羽を経由して江戸に入った。すなわち現在の鉄道経路でいえば南部藩は東北本線を、津軽、松前藩は奥羽本線に沿って往来したことになるのである。なお明治7年に刊行された「日本地誌提要」に掲げてある道路は徳川時代中期から明治までの主要道路を示したものにして興味深いが、それによるといわゆる奥羽道中に属するものとしては

三戸―浅水―五戸―尊法寺―藤島―三本木―七戸―野辺地―小湊―野内―青森

となっていて、藩政時代には野辺地止まりで南部藩唯一の西回り航路の発着地である野辺地と城下盛岡とを結ぶ重要道路であったに相違ないが、明治24年に鉄道東北本線が青森まで敷設された時には三戸から野辺地までの間は、この道路によらないで東方を迂回した。また野辺地からは佐井道が分岐し

野辺地―有戸―横浜―中丿沢―田名部―関根―大畑―下風呂―易国間―大間―奥戸―佐井

とこれから海路函館へ渡るのである。この道路に沿っても鉄道大湊線が大正10年に大湊までで、さらに昭和15年田名部から大畑まで大畑線が敷設された。また田名部から佐井へ行くには西回りの別道もあって

田名部―大湊―城沢―川内―檜川―宿野部―蛸崎―小沢―脇ノ沢―九艘泊―牛滝―福浦―長後―佐井

で佐井から函館までは海路直径12里8町で青森、函館の現航路よりは16里10町も近いので藩政時代における南部方面の渡道者はみなこれによったが、明治以降青森に鉄道が開けて青函経路の起点となるに及んでその繁栄を奪われてしまった。また三戸から八戸へ行くには

三戸―劔吉―苫米地―櫛引―八戸

の道路があり三戸からさらに西へ分岐する花輪路は

三戸―田子―関―大湯―毛馬内

に道路が通じ関と大湯間の莱満峠には関所が置かれていた。鹿角方面の鉱業地ではこの街道によって魚類の供給を八戸から仰いだが、これにしたがって酌婦の売買なども密かに行われ番所役人に賄賂を使って、この地方では魚の方言をダボというところから女の乗り物をダボと称して関所を通過せしめていたので酌婦のことをダボと称するようになったという。「莱満節」(284ページ)と称して鹿角地方一帯に歌われた「甚句」はこの八戸女がもたらしたものなのである。なお八戸から海岸沿いに北上して田名部に至る道路もあるがこれは略し、津軽方面では佐竹領(秋田県)の白澤から北上する羽州街道(これは明治になって名付けられた)として

白澤―碇ヶ関―石川―弘前―藤崎―浪岡―新城―青森および弘前から鯵ヶ沢に至る

弘前―高杉―十腰内―浮田―鯵ヶ沢

および青森から三厩に至る松前街道(奥州道中の一部)

青森―油川―蓮田―蟹田―野田―片館―今別―三厩

の三道路は津軽藩が御城下弘前と所領内とを結ぶ重要道路であった。

すなわち弘前を中心として北は青森港に南は矢立峠を越えて秋田佐竹領に入る道路は現在奥羽本線(明治37年開通)が縦走しており、弘前、鯵ヶ沢間はこの道路とは離れて五所川原、木造を迂回し、鯵ヶ沢からさらに海岸線を延びて深浦を経由、出羽の能代に連結する五能線(昭和11年全通)が設けられ、また弘前と黒石支藩との間にも大正元年以降黒石線が通じている。そして現在では東の東北本線(主として東京方面)と西の奥羽本線(主として関西方面)の二大鉄道幹線が東京、京阪地と奥羽、北海道を結ぶ交通要路となっているが、藩政時代にはこれと反対に海上における西回り東回り航路(243ページ)がこの役を務めていたのだ。津軽地方には蝦夷地や北陸方面との交通のためにすでに安東氏の時代から十三潟、小泊、三厩などの諸港が開けていたが、津軽氏の所領に帰してからは二代信牧の寛永2年(2338)には鯵ヶ沢港を開いて前者は東回り、後者を西回り起点とするほかに深浦および油川を加え藩の七要港とした。

 

また南部藩において国外から京、大阪方面への移出物資は古くは鹿角領から米代川を船で出羽の能代へ送り、ここから西回り船に積んだが、野辺地港を開いてからはここを西回り航路の起点とした。また江戸への物資輸送は仙台城主伊達政宗が元和年間に東回り航路を開いてから後、八戸支藩では寛文7年(2327)以来鮫港から米や大豆を随時江戸へ送り出したということである。なお南部領の三戸、北郡所在の湊の至浦で正保2年の地図に記載されているのは鮫(三戸)泊、野辺地、横浜(以上上北郡)大畑、大間、奥戸、大平、九艘泊(以上下北郡)などで、その中でも佐井は函館への直接連絡港として藩政時代には商家、妓楼が軒を並べすこぶる繁盛していたという。「奥南盛風記」によると元禄11年8月19日暴風があって多くの難破船、死傷者を出したが、その被害船の中に佐久島船(三河幡豆郡)、三河船、仙台船、江戸船、尾張船、伊勢船、越前船、津軽船、能登船、兵庫船、宮古船(陸中下閉伊郡)などの名があげられているのを見てもいかに多くの諸国の船が集散していたかがわかって面白い。こうして海を通じての港の船の往来、物と人との出入りに対してまず求められたのは酒と女と歌とであったろう。酒田節、アイヤ節、二カタ節、三下り、じんく、護良節、広大寺などいつの時代からの俗謡、はやり歌が錯綜交流して行われている中に、ある者はその土地独特の節回しに変化、改良されてその土地の歌として継承されるに至ったのである。特に「アイヤ節」(30、31ページ)のごときは津軽、南部南地方に共通して歌われている中にいつしかその節回しに差異を生じて、その楽譜に見られるような変化をきたした。この歌などは津軽人と南部人との音感覚の上の趣味性の相違がよく現れている例として誠に興味ある資料たるを失わない。

​生風景と作業歌との関係

現青森県の産業は藩政時代から米と林業と牧畜とがその最たるものであったが現在においてもこの伝統は保持されており、農業が最大主要産業で県経済の半分以上これによって賄われているといってよい。米は地勢、地味の関係もあって津軽地が南部地に比して約3倍強の収穫がある。しかしこの津軽平野1000平方キロの沃地も自然に放置されたままに存在しているのではなく、津軽家代々の開墾の苦心の賜物なのである。津軽氏は元祖為信の創業のあとをうけて2代信牧が植林、開墾に手を染めたが、4代信政に至って貞享年間(2344―)岩木川の改修と築堤工事と新田開発、および日本海方面から吹き寄せる季節風の暴威を防ぐための植林事業などの施行によって興毅した村が二百数十ヶ村、米の増収が二百数十ヶ村に及んだという。この頃西津軽方面の新田開墾のため秋田方面からの出稼ぎ人に歌われたものが「秋田節」(35ページ)すなわち今の津軽音頭であったという。なおこの信政の時代はいわゆる元禄の経済的変調の時代で、信政の殖産興業の努力にかかわらず藩の財政は次第に窮迫し7代信寧の代には凶作相次いで起こりついに破綻に瀕するに至ったので分限者からの用金徴発、家中牛和制、貸し借り無差別の徳政を断行してようやく危機を脱することができたものの、この非常時家督を受け継いだのが8代信明で自ら勤励力行を垂範、廃田の復興備荒貯蓄制度の確立に邁進したが惜しむべし年齢わずか30歳で病没したものの津軽家中興の祖として後世松平楽翁、上杉鷹山とともに東北の三大名君と称された。この信明の志を受けたのが黒石支藩から入家した9代寧親で、最も新田開墾に意を注ぎ、享和から文政に至る約30年間に立村28、新田加増38000石を収めた。津軽藩の当初の知行は45000石であったが文化2年に70000石に加増、さらに同5年に10万石に昇進したのであるが、その実収は四、五十万に達していたと推定された。これが明治時代に引き継がれてから金納制度になったため農家において収量多きを望んだ結果、品質が一時下落したがその後改善されて今日に至っている。この津軽米に対して三戸、上北郡方面の産米は品質もこれに劣っており、この方面ではむしろ粟、稗、蕎麦などの雑穀の栽培が多い。「田植え歌」はかつては津軽地方には各地に歌われたものらしく「里謡集」には中津軽郡の歌詞の採集があるが現在ではその曲節は絶えていずれの地にも聞くことができないが、西津軽郡の木造地方で明治の中期頃に歌われたものは幸い同地出身の館山甲午氏の記憶にあったので本書に収録することができた(11ページ)。

歌詞もなかなか変わっていて面白い。南部領方面には作業としての田植え唄はなく、田植え踊り系統の門付き歌が残っている。「田の草取り」の歌は津軽方面では「ホーハイ節」(13ページ)を用いたらしいが、この歌は盆踊り歌としてもまた稲刈り歌にも運用されたらしく「里謡集」には東津軽郡の稲刈り歌として「婆の腰やほはいほはい」云々と記してある。なおこの歌のヨーデル式唱法はアイヌのエフンケイと一脈通ずるものがあって研究の価値がある。また三戸郡方面の「田の草取り歌」(12ページ)は主として粟や稗の場合に用いられたらしく同地方の郷土歌ともいうべき「ナニヤトヤラ」の最も典型的な形態の変化である。臼歌(14−15ページ)は南部領の方には籾摺、粉挽などに歌われ、現在でもその曲節は残っているが津軽方面では歌われた形跡がないのはむしろ不思議である。蕎麦は地勢および気候の関係で南部地方に少量の栽培があるのみ、大豆は現在ではそう生産の多い方ではないが品質の良好をもって知られ、藩政時代には南部から大阪、江戸方面へ出荷している。リンゴは日本一で全国総生産額の半ば以上を占めているが歴史は新しく、明治7年にアメリカから種木を持ってきて植えたのが初めというからしたがってみかんや柿における「もぎ歌」「えり歌」といったようなものはない。次に農産工業品としては津軽藩では4代信政の代に桑、漆、椿、柿、茶、紅花、麻、芋、藍、薬草に至るまで栽培を計ったが風土の関係で必ずしも成功しなかったが、漆の栽培は絶えず行われた結果として津軽塗りのような名物漆器が現れた。また養蚕製織の術は信政が京都から招聘した野元道玄によって割策されて国内需要に応ずる価値をあげたが、以上の諸種家内工業における作業歌が歌われたかどうか今は少しもわかっていない。次は林業であるが、これは津軽、南部両藩ともに力を尽くした。すなわち津軽家では2代信牧の慶長寛永(2256―2303)頃から植林に手を染め4代信政の代には一層林政を整備し杉、檜、柏、栗などの増殖を計り、また南部藩でも森林保護と植樹奨励には意を用いたので山岳の重畳する津軽の東北南の三郡や下北郡は鬱蒼たる森林に囲まれている。この林業と平行して牧畜も古い歴史を持ち、ことに産馬は南部藩において三本木原を中心とした上北、三戸が古来から有名な南部馬の産地で、馬匹の改良とその保護、奨励とは藩祖光行が建久年間に入国以来の伝統的政策であった。

また津軽でも2代信牧の時代に津軽坂、雲谷、入内、滝沢、枯木平の五ヶ所に牧場を開き、弘前には馬市を開いて他領民との売買交換を許したが、この精神は今日にも引き継がれ、奥羽における随一の馬産地として自他共に許されている。また水産は陸奥湾には鱈、ナマコ、帆立貝、また鰰は日本海方面から津軽海峡を経て太平洋方面一帯に漁獲され産額の最も大きいものでこれに次いではイカで、これには一番スルメ、二番スルメ、水イカなどの種類があり、漁場は下北郡が最も多く、東北津軽郡がこれに次ぐ。マスやカツオは太平洋岸の上北、三戸郡方面が本場である。津軽領方面には漁労に関する仕事歌というものは何も伝わっていないが、奥南下北郡の尻屋岬付近のイカ船の漁師の歌う「沖節」というものは宮城県の「遠島甚句」のくづれであるのも面白く、この沖節が遠島甚句系艪漕ぎ歌の北限界をなしているわけである。また八戸付近では明治になってから俗謡の「よいよなか節」と津軽の「よされ節」をもじって「大漁歌」(28―9ページ)として歌ったことがある。

​社寺芸能と囃子と踊り唄

この社寺に関係した芸能や盆踊りのようなものは津軽と南部とは全く分布を異にしている。たとえば「山伏神楽」のような楽舞は津軽地方には全然行われていなかった。本田安次氏の研究によると青森県でこの「山伏神楽」(この地方では権現または獅子舞という)の残っているのは八戸市内の小中野と三戸郡中澤村字中野、同郡田子町、上北郡横浜村字檜木、同吹越、下北郡東通村字目名、同白糟に分布しているとのことで、同氏はこれを地域的に分類して、「九戸風」と命名している。本書には三戸郡上長苗代村に伝承されている「権現舞」を収録した。この楽舞は現在では同村の松本嘉太郎翁(72)を中心として矢澤、大佛、笹野沢各所の有志によって組織され、郷社櫛引八幡の5月15日の例祭に奉仕しているという(66―7ページ参照)。この権現舞は付近の小中野や中野、田子のものや北郡方面のそれと伝承の経路がどんな関係にあるのか不明だが以前は修験者たちの管掌に属し、毎年霜月頃になるとこの種の修験者が組組に分かれて権現の獅子頭を奉仕して火伏せや悪魔払の祈祷に村々を周り、これを「まわり神楽」「通り神楽」または「門打ち」と称し、その泊まり泊まりの民家の一室を舞斎にあてて幕を張り注蓮をめぐらし、大勢の村人を見物人として一晩に12幕くらいの舞曲を演じ、その翌日宿を立つ時には「神送り」と称して家中の人々を集めて特に入念な祈祷を行い、新築の家には柱がらみの祈祷を、また仏の年忌に招ぜられては墓獅子を舞った。これらの宿は定宿になっているところもあるが、村によっては輪番になるところがあり、あるいは講を結び、講がこれを指定する。要するに山伏としては祈祷をして歩くのが根本目的ではあるが、余興的にこれらの舞曲を演ずることによって一層村人の歓心を買う方便たらしめたわけで、今日のようにラジオ、蓄音機、映画というような何一つの娯楽を持たない農村において、特に冬の訪れの早い奥羽地方では老いも若きもいかにしてこの権現様の訪れを楽しみにして首を長くして待っていたかは想像に難くないのである。

これに対して津軽地方に行われたのは関東系の「獅子舞」(59、60ページ)で、これ以外の山伏神楽系統の獅子舞は例えば隣国の秋田領山本郡方面には「番楽」という名で各地に行われているのに対して津軽領では全然行われた形跡さえないのは不思議である。また南部、伊達、最上領地方では盛んであった初春の農耕行事としての「田植え踊り」は「えんぶり」(61−5ページ)という名で八戸市を中心とした三戸郡地方で今なお盛んに行われているが津軽地方には残っていない。もっともこれは菅江真澄翁の「一曲」には津刈の田歌として歌詞の採集があるから以前には行われたこともあったらしい。鹿踊りも現在では南部津軽両地に絶えているが前記「一曲」には津軽の鹿踊りとして歌詞が記載されている。また現在の岩手県地方で盛んな「剣舞」は三戸郡階上村地方に「鶏舞」(72−3ページ)と記されて残っているのが唯一のものらしい。また「駒踊り」は現在ではこの青森県と岩手県の南部領と秋田県の鹿角山本郡方面にしか行われていないが元来は神社遷宮などの祭事に神輿に扁従した練り芸式のものが独立した芸能として行われるに至ったもので、本書提出の上北郡藤阪村(68―71ページ)のもその一つである。盆踊り歌はそのすこぶる古風なものを伝承しているのとかつ種類の多い点では全国でも有数である。まずその古いのと珍しい点では南部領の「なにやとやら」(53−5、127ページ)と津軽領の「ナオハイ節」(44ページ)とであろう。「なにやとやら」の発生については種々の説があるがいずれも信を置き難いがとにかく非常に古い時代からの伝承であることだけは確かで、それも初めは盆踊りの歌だけではなく、祝典祭儀、仕事とあらゆる場合に歌われていたと思われる。また「ナオハイ節」は津軽氏よりはさらに一時代前の安東氏時代からの伝承らしく、おそらくは北条足利時代の宗教的歌謡から変化したものと考えられる。この歌が現在歌われているのは北郡の相内村であるが昔安東氏の居城であった福島城に近いところで、常時の開港であった西郡の十三には別に「十三の砂山」(45−7ページ)という盆踊り歌が伝えられているが、この方は「ナオハイ節」のような古い時代のものではないが江戸時代になってから出羽の酒田から移入してきた舟歌の「酒田節」の変化したもので、なおこの歌は南部方面へも入って三戸郡階上村の「えんぶり」の踊りの中に「酒田」(62ページ)として組み入れられている。また津軽一帯に盆踊り歌としても田植え唄としても歌われた「ホーハイ節」(13ページ)も極めて珍しい特色のある歌でその発声方法はアイヌ人の歌うエフンケイによく似ている。

​楽器

他の三味線との比較

津軽三味線と長唄三味線

津軽三味線と長唄三味線の違い.jpg

津軽三味線と義太夫三味線

津軽三味線と義太夫の比較.jpg

津軽三味線と地歌三味線​

津軽三味線と地歌三味線の違い.jpg

津軽三味線と三線

津軽三味線と三線の比較.jpg

​・津軽三味線は楽器屋さんに売ってるの?

島村楽器さんなど、ピアノやギターが売っているような楽器屋さんでは売っていません。

和楽器屋さんで扱っていますので和楽器さんで買いましょう。

津軽三味線も棹幅など色々種類があるので、
先生についている場合は先生の指定のものを買うのが間違いが無いと思います。

▼ネットで買うなら獅子道オンラインショップ!
https://www.tsugarushamisen.co.jp/shop

Where can we get Tsugaru Shamisen?

You can't get Tsugaru Shamisen at Musical instruments shops.

You sould find Shamisen shop when you want to get them.

When you want to buy Shamisen online,
We recommend Shishido online shop
https://www.tsugarushamisen.co.jp/shop

棹と胴

​・津軽三味線のビヨーンて音はどうやって出すんですか?
 

棹の後ろにあるネジを さわり と言います。

このさわりを回して前の木の突起を糸にかすかに触れさせてビヨーンという音を出します。

この洋楽的には雑音 と言われる音をあえて入れるのが日本音楽の特徴です。
 

How does Shamisen make buzzing sound?
The screw you can see on the back of the Shamisen neck is called Sawari, this is the mechanizm that shamisen makes buzzing sound.

The way we add noise on purpose is one of the feature of Japanese Music

​・津軽三味線棹花梨とは?

津軽三味線の棹は花梨か紅木が多いですが、

花梨とは「マメ科の木材」を指します。(花梨のど飴の花梨とは違います)

昔はタイ、ラオス、ミャンマー、で採れていたのですが伐採禁止になり、

そこでできたのがアフリカ花梨。

このアフリカ花梨は西アフリカの山岳地帯のみに生息しているそうです。

アフリカ花梨もマメ科ですので 間違いのない花梨です。

他のメーカーではマレーシア花梨やチベット花梨の名前で
花梨という名前を使っているところもあったのですが、

それらはマメ科ないので花梨ではないのです。

What is Karin, which is the material of Tsugaru Shamisen neck ? 


Tsugaru Shamisen's neck is made from Karin or Kouki.

Karin means   leguminous plants.

Formerly they are obtained in Thai, Laos, and Myanmar in Asia

But now we can't get them because they were obtained too much.

So they changed into African Karin.

 

African Karin grows in West African Mountainous area

African Karin is leguminous plants, so it's exactly Karin.


Other manufactures uses the materials called Tibetan Karin and Malaysian Karin,

But they are not leguminous plants.

​・津軽三味線、フレットなしでどこを押さえるかどうやって分かるのか?

重要なところにはシールがついています。
初心者の方には番号のついた譜尺シールがついていますので
安心してください。

How can shamisen player know what position should we push? 
There is point sticker on important positions.
For beginners, we put number sticker called "Fujaku" on it, so no worries.

糸巻き

・小山流の津軽三味線の糸巻の順番は上から順になっておりません!

 

上から 1の糸(太) 3の糸(細) 2の糸(真ん中)の順になっています。

 

これは絹糸を使っていた時代に糸が上駒に当たる面積を少なくし糸が切れるのを少なくするためと、

 

目の見えない人が弾いていたので天神(ヘッド部分)をまたぐのが一回で済むという2つの意味合いがあります。

 

The order of Tsugaru Shamisen peg is not 1,2,3 order.

 

It's 1(big) 3(small)2(middle)

 

It's because when we use silk strings as 3rd string, we tried to decrease the area of touch between string and nut.

or blind musicians are easily to pass over the head once in this order.

・津軽三味線べっ甲撥ならココ!

 

高品質低価格。 海宝堂 Bekko Bachi shop Kaihodo

 

http://www.kaihodo.com/

 

カリブ甲はねばりがあり、

南京甲は柄が良いということで使われます。

 

低価格

55000円〜

 

べっ甲調もネオ甲と言い海宝堂特製!

26400円

 

Caribbean Bekko is flexible,

Nanjing one has good pattaern.

cheapest one 55000 yen〜

 

Faux Bekko is called Neo Bekko, Kaihodo made it first in Shamisen world

26400yen

・津軽三味線の弦って何からデキてるの? -What's the Shamisen strings made of?-
 

一の糸は絹、ニの糸は絹かナイロン、
三の糸はナイロンになります!

The first big string is made of silk,
the second middle one is made of silk or nylon,
the 3rd small string is made of nlylon.


この黄色い色は昔防腐剤としてウコンを練り込んだ名残。

The yellow color is traces of including tarmelic as preservatives
 

今は黒、赤、青、他の色もあります!
Now we have black , red blue ones.

・ヒモで弦を止める? 津軽三味線の糸は何で留める? -With  do shamisenstrings hook?-

 

津軽三味線の糸は 音緒(ネオ)という紐で止まっています。

分解してみると長ーい一本のヒモ。

最近ではプラスチック製のハード音緒というものもあります。


Tsugaru Shamisem strings hook with Neo, which is thread.

When it is untied, it's very long thread.

Nowadays there is plastic Neo, called Hard Neo

調弦

・古今東西 音の名前! The variation of the name of notes #shorts

 

ドレミファソラシドのド、実はこれ、イタリア語。

Do Re  Mi Fa So La Si Do's Do is Italy.

 

英語名ではC,

We say C(See) in English

 

ドイツ語ではC(ツェー)

We say C(Cheh)  

 

日本語では ハ

Ha in Japanese

 

箏(琴)では盤渉(ばんしき)

We say Banshiki in Koto

 

民謡では東日本では二尺(にしゃく)

In Minyo We say Ni(Two)Shaku(Japanese feet)

 

東日本では4本といいます。

We say Yon hon (4hon).

演奏曲目

流派

全国大会一覧

津軽三味線世界大会(旧・津軽三味線全国大会) 青森県弘前市、1982年〜 津軽三味線大会としては初。
Tsugaru Shamsien World Cup. Hirosaki city in Aomori 1982- It’s the first competition of Tsugaru Shamisen

 

津軽三味線全日本金木大会   青森県五所川原市金木、1989年~
Tsugaru Shamisen All Japan Kanagi competition (Gosyogawara,Aomori)1989-

 

津軽三味線コンクール全国大会 東京都台東区浅草、1998年 以前は日比谷公会堂で行われていた。
Tsugaru Shamsien Championship(Asakusa in Taitoku ,Tokyo)1998-

 

津軽三味線日本一決定戦、青森県青森市。2007年〜 曲弾きだけでなく、唄付けもできるようにということで出来た大会。トーナメント戦。
Tsugaru Shamisen No.1 in Japan Tournament (Aomori City in Aomori) 2007-

 

全日本津軽三味線競技会名古屋大会、愛知県名古屋市。2007年~

All Japan Tsugaru Shamisen Competition in Nagoya (Nagoya ,Aichi) 2007-

津軽三味線大阪大会、大阪府箕面市 2008年~

Tsugaru Shamisen Contest in  Osaka (Mino, Osaka) 2008-

 

津軽三味線全九州コンクール 宮崎県都城市 2015年~
Tsugaru Shamisen all Kyusyu Contest(Miyakonojo,Miyazaki)2015-

 

本場津軽民謡全国大会 。青森県黒石市、2012年〜
Authentic Tsugaru Minyo Contest (Kuroishi in Aomori)2012

 

津軽三味線・津軽民謡全国大会

Tsugaru Shamisen and Tsugaru Minyo All Japan Contest

in びわ湖 - 滋賀県大津市、2013年~

In Lake Biwa(Ohtsu,Shiga)2013-

 

in びわ湖 - 滋賀県大津市、2013年〜
In Lake Biwa(Ohtsu,Shiga)2013-

 

in 倉敷 - 岡山県倉敷市、2016年〜2018年
in Kurashiki(Kurasiki, Okayama) 2016-2018

津軽三味線全国大会in神戸 兵庫県神戸市 2007年-2012年

Tsugaru Shamisen National Competion(Kobe, Hyogo) 2007-2012

日本郷土民謡協会太棹の部
Japan Local Minyo Association Futozao Division 


津軽三味線甲子園 ましろのおと選抜演奏会(東京都中野区中野)2013年〜
Tsugaru Shamisen Koushien Championship(Nakano,Tokyo)2013-

 

津軽三味線みちのく全国大会(宮城県仙台市)2017年~
Tsugaru Shamisen Michinoku Contest (Sendai city in Miyagi)2017-

 

全国じょんがら三味線競技会 石川大会、(石川県金沢市)2021年
All Japan Jongara Shamisen Contest in Ishikawa(Kanazawa,Ishikawa)2021-

 

津軽三味線リモート大会from Home(よされプロジェクト)(オンライン) 2021年~

Tsugaru Shamisen remote contest from Home(Yosare Project)(online) 2021-

 

Bachido Cup (オンライン)2021年~
Bachido Cup (online)2021-

 

TSUGARU-SHAMISEN CONTEST 2020(オンライン) 2020~

TSUGARU-SHAMISEN CONTEST 2020(online) 2020-

 

中南米三味線コンクール (オンライン) 2021年~

Latin America Shamisen Contest (Online) 2021-

青森県民謡民舞津軽三味線全国大会 第1回津軽三味線日本一大会 (東京都豊島区) 2022年12月開催予定 
Minyo and Minbu Tsugaru Shamisen Competition.The 1st Tsugaru Shamisen National Tournament.(Toshima, Tokyo) 2022.12  It is scheduled to be

​世界大会レポート

第40回の記念になる大会。

 

個人部門191名、グループB7チーム、グループC 3 チーム。

獅子道はグループBと、個人ミドルC級に生徒さんが一人、
代表 貢山が 個人B級と 唄付伴奏B級に参加。

この日の為に何度も合わせをして研鑽を積んできました。


40th Tsugaru Shamisen World Cup in Hirosaki

Individual division 191 people,Group Division 10 group

3:21:05より Bグループ 獅子道の演奏が見られます。

無事 敢闘賞 頂きました!


3:21:05 You can check Shishido performance.

We safely got Fighting Spirits Award.

shishidou-award_edited.jpg

その他

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脚注

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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楽器
演奏曲目
流派
全国大会
脚注
棹と胴
糸巻き
調弦
その他
関連文献
関連項目
世界大会レポート
津軽民謡について
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