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幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  木田林松栄(きだ りんしょうえ、Kida Rinshoe)

木田林松栄(1)


戦後日本が高度成長を遂げた1970年(昭和45年)ごろ、津軽三味線の二大名人として「弾きの竹山、叩きの林松栄」と対比され注目を集めたのが、高橋竹山(たかはし・ちくざん)と木田林松栄(きだ・りんしょうえ)である。

木田林松栄は、1911年は(明治44年)に南津軽郡柏木村に生まれる。本名は田中林次郎。父・田中重太郎と母・田中さしの三男として生まれ、子供の頃から門付けに訪れた仁太坊の孫弟子・亀坊(かめぼ)のあとをついて歩いていたぐらい、三味線に魅かれていた。

尋常高等小学校を卒業し、農学校に進学したものの三味線への強い思いから中退し、17歳で吹田三松栄(ふきた・さんしょうえ)の通い弟子となる。その2年後、19歳で陸奥乃家(むつのや)演芸団に入団することになる。昭和5年のことだ。

林松栄の入団からほどなくして福士政勝(ふくし・まさかつ)が同演芸団に入団、その後の昭和10年には白川軍八郎が入団し、一座内で三羽烏と呼ばれるようになる。

林松栄は白川軍八郎の三味線の音色とその技術に衝撃を受けるが、弟子になったわけではなく、楽屋で三味線を弾いていた軍八郎の音色を隠れて必死で盗み聞きしていたのだという。

1932年(昭和7年)には、陸奥乃家演芸団の座長で民謡歌手の工藤美栄のレコード発売のため、林松栄は三味線伴奏でレコード吹き込みを行なっている。民謡興行の中で自らの三味線奏法を模索するが、時代は戦争の真っ只中である。昭和18年には、林松栄にも召集令状が届く。林松栄の豪快な叩き三味線を大衆が耳するのは戦後のことである。

林松栄は迫力ある音色を追求するため、とりわけ一の糸の太さにこだわった。30号が限度だとされる一の糸に、より太い35号を使うようになる。昭和36年には東京の民謡ブームを背景に、民謡酒場の浅草』七五三」の専属になるが、この頃はついに40号の極太を使うまでになっていたのである。


l 木田林松栄(2)


昭和37年(1962年)に浅草の民謡酒場「七五三」から池袋の宴会場「白雲閣」に移籍した林松栄は、津軽民謡歌手の浅利みきとのコンビで白雲閣の大看板となってゆく。その後、昭和41年に浅利みきとともに独立する。

高橋竹山との対比でいえば、林松栄は津軽三味線の伴奏に軸をおき、民謡の歌い手との関係を前提に演奏を続けていった。一方の竹山は、シャンソン歌手の淡谷のり子が定期ライブを行っていた渋谷の地下小劇場「ジァンジァン」で定期公演を行うようになる。ジァンジァンは当時の前衛演劇やフォークシンガーら、カウンターカルチャーの拠点でもあった。民謡伴奏ではなく三味線だけを聴かせる竹山の演奏は、それまでの民謡界とは別のまったく新たな客層を発見してゆくことになる。

こうして演奏手法や支持層の違いからライバル関係とみなされてゆく林松栄と竹山だが、お互い仲が悪かったわけではない。両者がメディアを通して決定的にライバルとみなされるようになったきっかけは、昭和49年によみうりテレビ「11PM」の企画で制作された芸術祭参加作品の番組『三味線の詩』だといわれる。この番組内で、両者を別々の場所で収録した「三味線は弾くもの」「三味線は叩くもの」との発言を同一画面で流したためだとされる。メディアの煽りによって対立させられ、それ以降、両者の関係が悪くなったという証言もある(「まんよう文化」誌上での木田林松次・三隅治雄対談)。問題の番組『三味線の詩』は昭和50年にLP盤としてキャニオンレコードから発売されるが、竹山本人の許可なく発売されたため、2週間で販売中止、3カ月後に廃盤となる。

竹山の支持層が民謡に縁のないサブカルチャー志向の若者やインテリに支持されたのは、この時代の音楽文化の変化を見るうえで特徴的な現象だが、林松栄は民謡にこだわり多くの弟子を取った。

林松栄は昭和54年1月1日に67歳で亡くなったが、木田流と竹山流は津軽三味線二大潮流として、今なおその底流にある。




【参考文献】

・松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)

・ 松木宏泰「北の熱き民族音楽 津軽三味線」『Civil Engineering Consultant』2006年7月号

・大條和雄『津軽三味線の誕生 民俗芸能の生成と隆盛』(新曜社、1995年刊)



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