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幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖  白川軍八郎(しらかわぐんぱちろう、Gunpachiro Shirakawa)

白川軍八郎(1)


大正6年(1917年)、この年還暦を迎えた仁太坊に9歳で弟子入りした白川軍八郎はめきめきと三味線の腕を上げ、14歳になる頃には仁太坊の奏法のほぼすべてを習得し、数百年に一度現れるかどうかの天才だとすら言われた。仁太坊から独立した後も、のちの津軽三味線の標準的技法となるような洗練された奏法を独力で練り上げ完成させてゆく。ところで、仁太坊の弟子の中でもSP盤音源が残されているのは、白川軍八郎だけである。テイチク、リーガル、ビクターなど複数レーベルの音源が存在しているが、白川軍八郎が生きた時代は蓄音機の世界的な普及期にあたり、家にいながらにして音楽を聴く体験を人類が初めて経験した時期だということになる。日本における蓄音機の歴史は、明治20年代にさかのぼる。蝋を塗った細長いシリンダーの表面に音を記録する「蝋管式」と呼ばれる蓄音機が日本に持ち込まれたのは明治23年のことだった。

「蓄音機がわが国へ渡来したのは、明治二十三年(一八九〇)頃で、始めは浅草の花屋敷で、蝋管からの発声をゴム管で耳にあてて聞かせる仕方で、余興としてお目見栄したとされている。」(松本重雄「大正時代の銀座の系譜」『貯蓄時報』1978年6月号)われわれが知る円盤型のレコード盤が登場するのは蝋管式のしばらく後だが、日本初の蓄音機吹き込みが行われたのは、英国のレコード会社グラモフォンの録音技師フレッド・ガイスバーグが日本を訪れた明治36年(1903年)である。築地のメトロポールホテルに落語家や浪曲師が招集され、その一室で吹き込みが行われた。その後、米国のコロンビアやビクターをはじめ欧米レコード会社が相次いで日本市場に参入してくる。当時の欧米レコード会社は蓄音機の市場開拓のため、世界中で大がかりな出張録音を敢行していた。渡航先で録音した原盤を持ち帰り、自国工場でプレスしたレコード盤を録音元の国・地域へ蓄音機とともに輸出する。蓄音機のハードと現地化したソフトを同時に輸出するビジネスモデルで、世界に蓄音機の市場を急速に拡大させていった。

日本における蓄音機製造とレコードプレスの国産化は、日米蓄音機製造、のちの日本コロムビアが設立された明治40年(1907年)以降のことである。日本コロムビアのレーベルとしては「ニッポノホン」がよく知られているが、白川軍八郎の盤もある「リーガル」は昭和8年以降にリリースされた大衆向けレーベルであった。





白川軍八郎(2)


白川軍八郎は16歳の時に小原家万次郎一座に入る。大正13年のことである。だが、大正15年には万次郎が一座を妹の三上鶴子に譲ったことにより、軍八郎もまた三上鶴子一座の所属となった。一方、昭和3年には津軽で天才民謡歌手といわれた工藤美栄を座長とする陸奥乃家(むつのや)演芸団が旗揚げしている。そこに軍八郎は昭和10年に入団することになる。

軍八郎の弟子の秋元博が2013年に『秋田魁新報』の取材に答えた「シリーズ時代を語る」の記事によると、秋元博が弟子入りした当時、その曲弾きですでに名人と言われていた軍八郎は39歳だった。

陸奥乃家演芸団は、中津軽郡千年村(ちとせむら)小栗山(こぐりやま)の工藤美栄の自宅を拠点とした一座で、軍八郎はその家の2階の一室をあてがわれていたのだという。

だが、座員が家で寝起きするのは年に1カ月程度、ほとんどの期間は巡業に出ていた。まず大みそかに弘前を出発し、元日から北海道の函館で正月興行が1週間、そして1月中は北海道内の炭鉱や漁港を回る。桜の季節になれば弘前に戻って観桜会の舞台をこなし、そして東北各地を巡業する。巡業の合間に弘前に戻っても工藤家のリンゴ畑の収穫や運搬の手伝いに座員たちが駆り出されていた。

秋元と同時期に陸奥乃家演芸団に所属していた軍八郎の弟子に、金谷美智也がいた。それが後の三橋美智也である。

美智也は昭和5年(1930年)、北海道上磯町生まれ。母親の金谷サツが民謡歌手だったこともあり、5歳から民謡を歌い、天才民謡少年と呼ばれるほどの才能を示していた。16歳で陸奥乃家演芸団に入団し、軍八郎の弟子として三味線の修業に明け暮れる。

そんな美智也が陸奥乃家演芸団を離れて上京するのは19歳の時だ。陸奥乃家演芸団の巡業先の秋田の横手でたまたま入った映画館で見た東京のシーンが上京のきっかけとなったのだという。




参考文献:

「シリーズ時代を語る:[秋元博]弘前の演芸団に入る」(『秋田魁新報』2013年8⽉22⽇付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]師匠は「うん」の一言」(『秋田魁新報』2013年8⽉23⽇付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]津軽では皆が作曲者」(『秋田魁新報』2013年8月25日付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]みっちゃんの思い出」(『秋田魁新報』2013年8月27日付)

「シリーズ時代を語る:[秋元博]美智也の確かな功績」(『秋田魁新報』2013年8月28日付)



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